この胸を焦がすときめきを<後編>
ミッドガルの中央を陣取る神羅カンパニー本社ビルに、ないものなどない。しかしツォンがいかに優秀であろうと、それを探すのは一苦労だった。
絵の具やペンキなど、誰が何に使うというのだ。これまでそういった類のものと無縁だった少年の突発的な命令に、ツォンは動揺を隠せないでいた。
幼稚園でもあるまいし、社内にそんなものがあるとは考えられなかった。期待薄でほうぼうあたってみた結果、見つかったことにかえって驚き、呆れてしまったほどだ。
色とりどりのチューブを抱えて部屋に戻ったが、ルーファウスが口にしたのは労いの言葉ではなく、耳に痛い怒鳴り声だった。
数が足りない、もっとだ、と強請るルーファウスに命じられ、ツォンは仕方なく、ビルの外にまで足を伸ばした。
隠密行動が多いタークスは、普段から目立たぬよう黒スーツの着用が義務付けられている。しかし、両手にバケツをひっさげたツォンは、その組み合わせの珍妙さもあって、かえって目立つ存在になっていた。
赤、青、黄色に、白のペンキをぶらさげて、早足にビルを駆け抜けるタークスは、独特の異臭を振りまいていた。周りの社員の表情を渋め、怪訝そうな視線を浴びながら、彼はそれ以上にいかめしい表情を刻んでいた。
額に浮かぶ汗を感じながら、ツォンはようやくタークス本部に戻ってきた。重いバケツを運び、痺れてしまった指でパスコードを入力して、開いた扉からのぞく景色にツォンは目を丸くした。
ルーファウスを閉じ込め、締めつけていた白い壁面は四枚のキャンバスとなっている。絵なのか汚れなのかわからないシミが、いたるところに付着していたからだ。
「遅い!」
声を張り上げるルーファウスの手には、先ほどツォンが持ってきた絵の具のチューブが握られていた。それを直接壁になすりつけ、右手に持つ筆で塗り拡げている。
「……なにを、しているんです?」
息を呑み、ツォンは尋ねた。両手を塞がれ、驚愕した彼は隙だらけで、きっと今ならば、突き飛ばされターゲットに逃げられたとしても弁明などできなかっただろう。
「絵の具に、絵を描く以外の使い道などないだろう」
呆れたように、ルーファウスは答えた。無論、そんなことはツォンにもわかっていた。しかし、ルーファウスがこんな単純で、幼稚な行動に出ることは、想像していなかった。
「これでようやく、準備が整った」
唖然とするツォンの後ろで、扉が閉まった。少年を軟禁するために用意された狭苦しい部屋は、すっかり彼の遊び場に変わってしまった。
ツォンの持つバケツを奪おうとしたルーファウスが、その重みに挫折するのは早かった。波打つペンキがルーファウスにかかってしまわないように、咄嗟にツォンは腰を曲げ、バランスをとった。
「大丈夫ですか?」
命令通りたっぷり用意してきてあったから、アルミ製のバケツは相当な重さになっていた。ルーファウスがこうしてペンキを目の当たりにするのは初めてで、中を覗きこんだ彼は、くせのある臭いに顔を顰めた。
「お前も手伝え」
少し考えた後、ルーファウスは言った。ペンキに浸かっていたはけを手にとって、彼は歩き出す。
「ルーファウス様」
ツォンは呼び止めようとしたが、青色に染まったはけからペンキを滴らせて、少年はさっさと歩いていってしまう。キャンバスは、この部屋を囲む壁全てだ。
運んできた荷物の重さに疲労していたが、休む暇など与えてもらえないようだ。ツォンは小さなため息を漏らし、両手にバケツをぶら下げたまま青の滴りを追いかけていった。
人が色を選ぶ際、黄色は抑圧、赤は憤りを表すと言うが、少年が選んだのは青色だった。彼はやはり、味の無い生活に疲れていたのかもしれない。
毛羽立ったはけを壁に叩きつけると、ねちょりとペンキが音を立て、滴が辺りに散らばった。床には、放り出された絵の具と筆とが転がっている。左右に大胆に腕を動かす少年の足元に、ツォンはペンキのバケツを並べた。
「絵の具だのペンキだの、突然なにを言い出すのかと思ったら…。一体なにを描いてらっしゃるんです?」
水気の足りないペンキで、ルーファウスはべたべたと壁を汚していく。本人にとっては芸術なのだろうから、ツォンはあえてまろやかな言葉を使った。
「見てわからないか?」
得意げに、少年は鼻を鳴らす。返答に困って、ツォンは眉を寄せた。
ルーファウスは、ムラなく壁を塗りつぶしていく。真っ青に染まっていくそれを眺めながら、ツォンは呟いた。
「海ですか?」
「空だ」
二択のうち、間違った方を引いてしまったようだ。ルーファウスの機嫌を損ねたろうかと心配したが、暇を持て余していた少年は新たな手遊びに夢中でいる様子だった。
「窓を開けても、陰気な空では面白くないだろう」
ミッドガルは、いつもどんよりとした暗雲に包まれている。昼と夜の違いもわからない街並みを眺めていても、飽いた少年の心は満たされないだろう。
「さぁ、手伝え。ぐずぐずするな」
乾いてしまったはけをペンキで濡らし、少年は横柄に命令を下す。ふ、と息を緩めたツォンが、それに逆らうはずもなかった。
考えなしに青を塗りたくってはみたものの、まったく空らしく見えないことにルーファウスは気がついた。青の上に白を重ねてみたが、塗料が滲んで妙な模様が出来てしまった。
一度の失敗を経て、ルーファウスは雲にする部分を残し、周りを塗りつぶす技を会得した。壁が持つ本来の白が浮き立って、雲の質感が表現されると、少年は満足げに息を鳴らした。
少年の指示に従って、ツォンは新たな色を作り始めた。黄色と青を混ぜて、緑を育んでいく。
白い壁面に突然現れた青空の下に、彼は緑を足していった。ひとりぼっちだった空に色が繋がって、ようやく世界が現実味を帯びた。
ローラーなど使わないから、壁紙の目にそって色の凹凸が出来ている。何度も塗り重ねる内に少しはマシになったけれど、そうする内にルーファウスは汗をかき始めた。
狭い部屋に引きこもっていた少年の体力は衰えていて、急な運動に疲労を感じ始める。しかし、ソファに蹲っているよりは、こうしている方がよほど刺激的だ。
はけを握る腕を動かし、少年は額に浮かぶ汗を拭った。成長期の少年の背では、高いところまで手が届かない。扇状に広がった青色を見上げながら、ルーファウスは上着を脱ぎ、腕をまくり、足場を持ってくるようにタークスに命じた。
神羅カンパニーは、どこの部署においても人遣いが荒い。特に、トップに立つプレジデントの傲慢さは格別だ。口にすれば嫌がるかもしれないが、ルーファウスは確実に彼の血を引いている。そう思いながらもツォンは口に出さなかったし、また不思議と悪い気はしなかった。
部屋の端にあった椅子を持ってきて、ルーファウスの脇に立たせてやる。ルーファウスは靴のままそれによじ登り、壁の上に空を塗り広げていった。
ふう、と息を漏らし、ツォンはまじまじと壁を眺めた。色がべったりと擦りつけられただけで、芸術性もなにもないが、殺風景だった部屋に鮮やかな彩りが加わることによって、壊滅的な息苦しさは薄らいだような気がする。
ツォンが描いた緑色の淵は、ちょうど腰高の位置にある。色の合間を埋めようと筆をとった彼は、ふと思い立って、その手を止めた。
緑色に濡れた筆を置き、ツォンは新しい筆に持ちかえた。何本も持ってきていた内の一本を手に取ると、黄色のバケツにそれを浸し、細々しくそれを動かし始める。
塗料に浸した筆は重く、思い通りの線が描けない。苦心しながら描かれていく曲線に目をとめて、ルーファウスは尋ねた。
「なんだ、それは?」
いつもは見上げるばかりだったツォンを見下ろす高さにいて、ルーファウスは少し得意になっていた。心を弾ませていた少年は、訝しそうにを持ちあげている。
「お分かりになりませんか?」
ツォンの返答は、ルーファウスを満足させないものだった。少年の疑問は深まり、すぐに答えようとしないツォンの言動に、いささか不服そうに眉根を寄せる。
水分が少ないせいで、筆はすぐに乾いてしまう。毛羽立ったそれをバケツに浸し、ツォンは曲線に黄色を足していく。ゆっくりと、丹念に色を太らせながら、ツォンは答えた。
「チョコボです」
その名を聞いて、ルーファウスは大きな瞳でぱちりと瞬いた。
チョコボといえば、グラスランドエリアに生息する野鳥の一種だ。自動車の開発が進んだ現代でも、一部の地域では乗り物として現役で利用されており、また古くでは動力としても使われていたらしい。
ミッドガルを離れることの少ないルーファウスは、それを実際に見たことはなかったが、絵や写真でよく知っている。ツォンの描いているものとルーファウスの知るチョコボの姿は、似ても似つかない。
「ヘタクソめ」
「申し訳ありません」
嘲るルーファウスの言葉を、ツォンは否定しなかった。殊勝な言葉で謝られて、ルーファウスはかえって驚き、声を詰めた。
「絵心など、ないものですから」
淡々と呟いて、ツォンは筆を進めていった。くちばし、足、目になる部分をあけて、はみ出てしまった部分はたてがみとして活用する。黄色い本体部分を塗り終えると、散乱していた絵の具の中から茶色のものを拾い上げ、筆先に絞り出していく。
反発し、言い返してくるようならまだ面白みもあったものを。ルーファウスはつまらなそうに口唇を尖らせた。
そういえば、先日タークスの一人がチョコボの捕獲に失敗したらしい。ルーファウスは、散弾銃を背負った女に揶揄われてむきになった鉄棒使いの滑稽な姿を思い出す。
「チョコボか…。お前は乗ったことがあるのか?」
言葉にしない魂胆を悟られてしまわぬよう、平然とした風を装って、ルーファウスは尋ねた。ぺたぺたとペンキを塗りながら、彼は弾む声を務めて抑えた。
「いけません」
返ってきたのは、質問への答えではなく素っ気ない禁止の言葉だった。ルーファウスは手を止めて、眉をねじってツォンを見下ろした。
「まだ、なにも言っていない」
「乗りたいのでしょう?」
チョコボに足を生やしながら、ツォンは言った。ちら、と視線を眇めた先で、ルーファウスが図星をつかれ、先ほどと同じように声を詰まらせていた。
「あれは大人しいようでいて、少々気難しい。舐めてかかると振り落とされますよ」
『危険だから』という理由で、ルーファウスからはありとあらゆるものが遠ざけられてきた。そうされればされるほど、好奇心旺盛な少年が反発するのは当然のことだったが、今軟禁されているこの状態もまた、彼が健全に育つようにとの隔離政策の一環だ。
斯様な状況にあって、ルーファウスは果敢だった。あらゆる情報を吸収し、活用しようとする。
今も、ツォンの言葉の裏側に回り込んで、ルーファウスはにやりと狡猾な笑みを刻む。
「乗ったことがあるんだな」
問いかけではなく、確かめるような口調だった。しまった、と、ツォンは眉宇を寄せた。
確かに、チョコボに乗った経験が無いわけではない。仕事の一環で、足の速い彼らの助けを借りたことがある。
興味を持たせてしまった、そのこと自体が、ツォンの失態だった。顔を険しくするツォンに、ルーファウスは子供らしくない不敵さで言い放った。
「私も乗るぞ。お前にできて、私にできないわけがない」
得意げなルーファウスは、ペンキに浸したはけをべっちょりと壁にぶつけた。青色のペンキが飛び散って、ルーファウスのシャツにしみができる。
「…ですが、危険すぎます」
「乗ると言っている」
子供だからと侮ってかかると、痛い目にあう。殊勝に進言して、それを聞き入れてくれるような相手ではない。
熟知していたことだったが、ツォンはまさにそれを実感した。ルーファウスはツォンを見下して、ツンと澄ました鼻を鳴らす。
「危険だというなら、お前もついてくればいいだろう」
要約すると、こうだ。『チョコボに乗りたいから、連れていけ』――、無論、それで満足して大人しくここに戻ってくる気がないことは、ツォンも重々承知していた。
壁に立つチョコボの足が、草を踏んだ。くちばしは歪な形になってしまったが、らしく見えないわけではない。
目を入れ、翼を縁取って、一応の完成を見た。ふ、と息を漏らし、顔を整えて、ツォンは言った。
「おひとりで乗れるとおっしゃるなら、私の助けなど必要ないのでは?」
困った顔の一つでも見せれば、少しは情け心を出してやろうものを。ルーファウスの思惑を知らず、ツォンは忌々しいほどのポーカーフェイスで、淡々と言ってのけた。
無礼になりすぎない口調で紡がれる挑発を、ルーファウスが受け流せるはずもない。かといって、反応しすぎて幼稚な一面を出すことも彼のプライドが許さない。
「―――ッ」
ルーファウスは奥歯を噛んで、言葉を詰まらせた。周りの人間が手を焼き、頭を抱え、降参し挫折していく中で、この男だけがルーファウスを丸めこんでしまう。
こんな苛立たしいことがあるだろうか。むしゃくしゃする。我慢ならない。
反発も反抗もさせないツォンのやりようが、気に食わない、気に入らない。
乾いてしまったはけを握りしめ、ルーファウスは口唇を噛んで、乱暴に腕を振った。大胆に体を動かして、身を屈め、バケツから塗料をさらおうとした。
その時、ぐらりとルーファウスを乗せた椅子が揺らいだ。乗せる重みが傾いだため、バランスが崩れ、安定を保てなくなったのだ。
「ルーファウス様!?」
ルーファウスは、なにが起きたのかわからなかった。声を上げる間もなく体が浮かび、浮かんだのだと気づくより早く、衝撃に悲鳴を奪われた。
「ぃ――ッ」
ルーファウスは身を縮め、両目を強く瞑った。驚いた拍子に、握りしめていたはけはどこかに飛んでいってしまった。
体に鈍い震動が広がっていって、ルーファウスはようやく、椅子から転げ落ちたのだということに気がついた。けれど、思っていたほどの痛みはない。うつぶせに倒れこんだルーファウスは、耳に届いた問いかけに、その理由を知った。
「お怪我は、ありませんか?」
ルーファウスより一回り大きな体躯が、彼の下敷きになっていた。床に叩きつけられる痛みはなかったが、腕と肩に痛覚の余韻が残っている。
きっとこの男は、バランスを失ったルーファウスの腕を掴んで引き寄せ、自分の上に抱きとめたのだ。驚いた目をぱちぱちと瞬かせ、忙しなく辺りとツォンと を見下ろして、ルーファウスは事態を把握した。それと同時、ふつふつと湧き起ってくる感情にルーファウスの指は震え始めた。
「…ルーファウス様?」
どこか、痛めてしまったのだろうか。ツォンは心配そうに目を細め、自分に跨る少年を見上げていた。
電光を背負う彼の表情は、影になってしまってよくわからなかった。噛みしめられた口唇が震え、支えるツォンの腕に食い込む指の力が強かになっていくのを感じるだけだ。
突然の事態に、驚いてしまったのだろうか。当然のことだろう。彼が不覚をとることなど珍しい。
神妙な面持ちで、ツォンはルーファウスの出方を窺った。彼を抱きとめた手には、絵の具の付着した筆が握られたままだ。ツォンの手とルーファウスの腕とに はさまって、少年の柔らかな肌が窪んでしまっている。はっと気付き、力を緩めようとしたツォンの手に、ルーファウスのそれが重なった。
「――ッ!?」
ツォンは、言葉にならない声をあげた。頬に感じたぬめった感触は想定外で、ツォンは肝を冷やし、咄嗟に首を竦めた。
ルーファウスに奪われた絵筆が、ポロリと零れおちた。ツォンの襟を汚し、床を転がった筆の先についていたものと同じ絵の具が、ツォンの頬にべっとりと塗りつけられている。
「なにをするんです?」
「気に入らない」
語調を弱めてツォンは尋ねたが、吐き捨てるような台詞が返ってきた。驚くツォンの顔を押しやって、ルーファウスは身を起こした。
なにが『気に入らな』かったのか、ツォンには理解できなかった。転げ落ちてしまった事実だったのか、先刻のツォンの返答だったのだろうか。
立ち上がったルーファウスは腕で顔を押さえてしまっていて、相変わらずその表情はわからない。なにに謝罪すべきか定められないまま、ツォンは呟いた。
「申し訳ありません」
ツォンが軽く頭を下げる空気を感じながら、ルーファウスは顔を上げようとしなかった。激しく弾んでいる心臓の鼓動を抑えるように息を詰め、少年は息を殺していた。
「気分が悪い」
小さな声で、ルーファウスは呟いた。不快感を口にして、顔を強く拭っても、胸に燻ぶる違和感は拭えなかった。ルーファウスに次いで立ち上がったツォンの視線を感じていると、それが強まっていく気さえする。
「臭いのせいでしょう。今日はこれまでにして、休まれてはいかがですか」
ルーファウスを案じてか、ツォンはそっと手を伸ばした。その腕を振り払うように、ルーファウスは歩き出した。
ふらつく足取りで進む少年を、引きとめることはなかった。彼がそそくさとソファに歩み寄り、そこに腰を落ち着けたのを見届けて、ツォンは密かに嘆息した。
たっぷりと持ちこんだペンキのせいで、部屋の空気はすっかり汚れてしまっている。無垢な少年が体調を崩してもおかしくはない。
それだけではなく、どうやらツォンの言動が彼の機嫌を損ね、へそを曲げさせてしまったようだ。これ以上のやり取りは逆効果だ、と理解して、ツォンはスーツの埃を払った。
「空調を強めて参ります。それと、着替えをお持ちしましょう」
ソファの座面に膝を乗せ、巻いた腕に顔をうずめ、ルーファウスは休んでいる。椅子が倒れた拍子に床に放り出されてしまった彼の上着をとりあげて、ツォンは、ちら、と未完成の絵を見上げた。
「続きは、また」
「さっさと行け」
ルーファウスは、つっけんどんに言い放った。辛辣な彼の言葉に、ツォンは一度だけ礼をして、自動扉の向こう側へ去っていった。
ツォンがいなくなって、ルーファウスはようやく息ができた。絵の具とペンキの臭いの入り混じった空気は、彼の胸にシンとした痛みをもたらした。
ルーファウスを庇った痛みも、ルーファウスを乗せた重みも感じていただろうに、あんな顔をするだなんて。普段は能面のような顔をして、命令にも素直に従わないくせに、自分などさておいて、人を気にするあの男が気に入らない。
部屋を出て、ツォンは今一度ため息を漏らした。部屋の中とは違う空気に安堵して、彼は扉を背に足を止め、そ、と頬に触れた。
肌の上に、ルーファウスにつけられた絵の具が乗っている。指先にねちょりと絡みついたそれから、ツンとした臭いが鼻に届く。
ルーファウスは、汚れたシャツを掴んだ。ツォンは汚れた手を握りしめ、それをスーツの襟もとに寄せた。
胸を締め付けるものが痛みなのか、苦しみなのかわからない。いや、これはもっと甘やかで、魅力的である一方で、とても御しきれるようなものではない、と、恐れすら感じさせる。
この感情はなんだろう。なにかの錯覚か、うたかたの幻か。
同じものを胸にやどして、二人は違う場所で同じ息を漏らす。胸に芽生えたときめきを抱きしめながら、彼らはまだその意味を知らずにいた。