賭事

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 イリーナは今頃、玉砕を終えた頃だろうか。そう思うと、レノの頬はいびつな形に吊り上がった。
 彼女は毎年毎年、ご苦労にも手作りのチョコレート菓子を拵えて、タークスの主任である鉄面皮の男の尻を追っかけまわしている。どうにか隙を窺っているようだけれど、毎年毎年渡せず仕舞いだ。
 レノは毎年毎年、その試食役を買って出ている。なんてことはない。毎年毎年彼女の邪魔をして、人の恋路をおちょくって楽しんでいるというだけだ。
 この星に住む人々は、イベントごとに敏感だ。レノの仕えているルーファウスという男は、そういった人々の性質を熟知して、翻弄する側の人間だ。穿った生き方だと思うけれど、レノもまた『そっち側』の人間であったから、彼に敬服はしても彼を軽蔑することはなかった。
「~~っ、これは流石に、寒すぎだぞ、と」
 賑やかな夜のエッジを、涼しいと言うには辛辣な風が吹き抜けていく。薄汚れたマフラーに首を埋めてはいても、開いたままのシャツのボタンは閉めたくない。
 終了報告を終えて身軽になった体を、どこで休めようか。ヒーリンに戻ってもよかったし、この前見つけたばかりの酒場で体を温めてもいい。様々な選択肢に考えをめぐらせた結果、彼は一番薄い目に賭けることにした。
 恋人同士と思しき男女の二人連れが、仲良く腕を絡ませあって、レノの脇を通り過ぎた。
 チョコレートを渡す相手がいる、というのは、それだけで価値のあることだと、レノは思う。自分ではそんな相手をつくるつもりもないし、せいぜい悪ふざけと称してスキンヘッドのグラサン男にハート型のチョコレートを送りつけるくらいだ。
 彼の地黒の肌が真っ赤に燃えるのを見るのは痛快だった。それを見物するためならば、少々の出費など安いものだ。
 イリーナのように、特別な想いをこめることなどしない。チョコレートなど、舌に乗せて腹に収めればなくなってしまうし、次の日にはその味すら思い出せないだろう。そんな無意味な行為に、何故人は安易に振り回されてしまうのだろう。かく思う自分もまた、振り回されているのだと実感し、レノは独り苦笑を零した。
 冷えた道路にコツリと踵を鳴らし、レノは足を止めた。横に聳える建物を見上げ、彼は白いため息を漏らした。
 そのビルに、看板は建っていない。けれど、レノはそこになにがあるのかを知っていた。
 ストライフ・デリバリーサービス。彼の名の屋号がついた事務所は、彼の塒にもなっている。
 明かりは、ついていない。きっと、あの大きな二輪車で大陸を駆け回っているのだろう。
 今日は、二月十四日。世に言うバレンタインデーだ。彼がいつも以上の多忙に翻弄されていたとしても、おかしくはない。
「…残念。スカだぞ、と」
 昔から、賭け事において、レノは大穴狙いだった。それが功を奏して大当たりを引き当てることもあれば、ハズレくじを掴むことも多い。
 今回はどうやら、苦杯を飲まされたようだ。レノは今一度ため息を漏らし、スラックスのポケットの中でモバイルを握り締めた。
 その中には、彼の連絡先が登録されている。しかし、レノはそれを取り出すつもりは無かった。
 事務所を呼び出してみても、中が空であることは既に知ってしまった。敗北を舐めたというのに、止めを刺されたくはない。そんなにまでして会いたいと思っていたわけではないし、会ったところで、期待が叶わないことはわかりきっている。期待していたのだ、と、自覚するなどまっぴらだ。
 これ以上、バツの悪いまま突っ立っているのも馬鹿らしく、レノは踵を返した。大人しく次の目的地を探ろうとしたレノの耳に、風を裂く轟音が届いた。
 改造に改造を重ねたバイクが吐き出す音は、伝説の狼の唸り声のようだ。道を照らすライトがうねり、そこに佇む男の姿を捕えて、ハイビームへと向きを変えた。
 正直なところ、レノは驚いていた。当てを外したはずの賽は、思いも寄らぬ形でレノの手の中に落ちてきた。目映い白光に浮かび上がるとんがり頭が、勝利の喜びをレノに痛感させていた。
 エンジンを唸らせたまま、二輪車はレノのすぐそばに足を止めている。ハズレくじを掴んだのは、どうやらレノではなかったらしい。フェンリルのグリップを握り締めたまま、彼は深く嘆息した。
「よう。お疲れさんだぞ、と」
 乾いた空気に、レノの声がよく響く。噛み殺せない愉快さを零す口許が、対峙する青年の苛立ちを嵩ませた。
――なにしてるんだ、アンタ」
 冷えた声がレノを威嚇し、攻撃する。しかし、敗者の問責は勝者の優位を揺らがせることはできなかった。
「ただの、お散歩だぞ、と」
 レノの返答は確かに事実だったけれど、その内容はクラウドを満足させてはくれなかった。どうして、なぜ、ここにいるのか。それを更に追究しようとして、クラウドは言葉を呑んだ。
 聞いたところで、クラウドの納得する返答が貰えるとは思えなかったし、過剰に反応して相手を喜ばせるのも癪だった。エンジンを切り、ライトを落として、クラウドはフェンリルの傍らへと舞い降りた。
「配達屋さんは、バレンタインも大忙しだぞ、と」
「どけ、邪魔だ」
「こいつは手厳しいぞ、と」
 横に退いたレノの脇を通り過ぎ、クラウドはフェンリルを軒の下へと移そうとする。優美なラインを描く車体の腰元に手を添えて、レノは歯笑いを携えながらクラウドを覗き込んでいた。
「ヒーリンまで送って欲しいぞ、と」
「今日の営業は終了した」
「なら、匿ってくれよ」
 スタンドを立てて、フェンリルの位置を確かめる。クラウドが首を横に傾げると、レノはシートに乗せていた手を浮かせ、クラウドの腰元に、そ、とそれを覆い被せた。
「明日の朝一まで、待ってるぞ、と」
 クラウドの左半身に右半身を重ねて、クラウドの腰に被せた手で太ももまでを撫で摩る。期待した偶然の実現に浮かれていたからか、レノの手管は大胆だった。クラウドが肩が跳ねるのを押し殺したことも、レノの驕りを増徴させていた。
「な、いいだろ、クラウド」
 甘ったるく強請る囁きを、白い耳に吹きかける。狼を模したピアスを食んで、風に吹かれた耳は大分冷えてしまっていることだろう。それを温めてやるように、レノは開いた口唇から舌を覗かせる。それが届くか届かないかという頃に、痛烈な痛みが彼に突き刺さった。
「いっ――!?」
 傍若無人な掌をつねられて、そのまま払い捨てられる。胸を肩で押しやられて、響く鈍い痛みにレノは眉を寄せ、苦笑を零した。
「俺の部屋に、アンタの寝るスペースは無い」
「シングルでも構わないぞ、と。いつもそうしてるだろ?」
「迷惑だ。他の奴に知られたら…」
「スリリングで、楽しそうだぞ、と」
 クラウドの台詞に被せるように、レノは反論を押し出してくる。鬱陶しそうに、困ったように、眉を捻じ曲げるクラウドを見つめて、レノはニヤニヤと笑みを漏らした。
 クラウドは、幼馴染や子供たちと一緒に暮らしている。そこに本気で上がりこもうというつもりではなかった。
 レノはただ、クラウドが困惑し、当惑するのを見るのが楽しいだけなのだ。そうさせてやることが、楽しくてたまらないだけなのだ。
「…じゃあ、代わりにチョコくれよ」
「はぁ?」
 静謐で、冷静で、クールぶった青年の美貌が歪むのが、なんとも言えず痛快だ。痛みの疼く手にふうと息を吹きかけて、クラウドの行く手を阻むように、レノはその場に立ちはだかっていた。
「今日は、バレンタインだろ。チョコレートくれるんだったら、大人しく引き下がってやるぞ、と」
 この出会いは偶然だったし、そんな状況は抜きにしても、クラウドがレノの為にチョコレートを用意している、などとは到底考えられない。そんな浮ついた関係ではないし、この青年が催事に敏感であるとも思えない。なにより、誰かの為にチョコレートを用意するなど、彼のそのプライドが許さないだろう。
 だから、これはレノに勝ちの約束された出来レースのはずだった。クラウドの敗北以外の結果など、ありえないはずだった。
「……はぁ…」
 声に出して、クラウドは深いため息を漏らした。着衣のポケットに手を突っ込む仕草を見せたから、レノは驚き、目を瞠った。
「ほら」
 クラウドは、握り締めた拳をレノの胸へと突き出した。トン、と突かれ、レノは軽くよろめいて、半歩後ろに退がってしまう。
「…なんだ、コレ」
「コレが、欲しかったんだろ」
 まさか、どういう風の吹き回しだ。呆気にとられたレノが開いた掌に、一粒のチョコレートが落ちてきた。
「仕事先で貰ったんだ。アンタの為に用意したわけじゃない」
 クラウドの放つ言い訳など聞こえない。濃紺の瞳をまちくりと瞬かせ、レノは銀紙に包まれたそれを凝視する。
 義理だとか、本命だとか、そんなことはどうでもいい。ありえないはずの一粒がこの手の中にある、それがレノの驚愕と、震える喜びを呼び起こした。
 目元の蒼を緩ませて、口端を持ち上げて、こびりついた銀紙を爪の先でほじくっていく。ピリ、とはがれた薄紙をぺりぺりと剥いていくと、ミルクの強い色合いのチョコレートが姿を現した。
「それを食ったら、さっさと帰れ」
 最後の最後に、面倒なことになったものだ。クラウドは何度目かのため息を吐き出した。
 朝から晩まで、丸一日かけて仕事を終わらせて、通常の三割り増しの疲労を抱えて帰ってくると、思いも寄らないハプニングに遭遇した。こんなものにどれほどの価値があり、こんな行為にどんな意味があるかも分からないが、それで平和が約束されるというのなら、容易いものだ。
「食わせてくれよ」
 チョコレートを銀紙に乗せたまま、レノは手を差し伸べる。俯いた顎を持ち上げたクラウドは、不満げな顔をしていた。
「ココに、運んでくれよ、と」
 そう言って、レノは長い舌を伸ばし、先をちょん、と指でつついた。目を細め、ニヤつくレノを睨みつけ、クラウドはきゅ、と口唇を結んだ。
 調子に乗るな、とか、図に乗るな、とか、吐き掛けたい台詞は山ほどあった。しかし、無駄な問答で余計な時間を食らわされるのは御免だった。
 早く家に戻りたい、そのための障害を、取り除かなければならない。グローブの指先を伸ばし、親指と人差し指とでつまみ上げると、それを捻じ込む勢いで腕を突き出した。
――ッ、ぁ……」
 俊敏な動きで手首を掴んだレノの手に、勢いを殺された。軽く息を詰め、よろめくクラウドはなんとか踏ん張ってその場に佇み続けたけれど、背を丸めたレノの舌が、指先へと伸びてきた。
 顔を近づけると、カカオの風味が鼻腔に届く。甘ったるい芳香が喉を渇かせて、舌先で触れた箇所から花が芽吹くように甘さが蕩けていく。
「おい……」
 制止の声など、耳に入らない。思いも寄らぬ相手から、思いも寄らぬ場所で、思いも寄らぬ物を齎されて、それを耽溺する畜生には、人の声など無意味でしかない。
 卑しく舌をまとわりつかせ、溶け出したチョコレートが結んだ滴も舐め取ってしまう。指と菓子の合間とを丹念に舐めていくと、ぬるまった菓子がつるつる滑ってしまうから、クラウドは指先に力を篭める。
「早く、食えよ…」
 グローブの指先が濡れてきて、不快さにクラウドは眉を顰めた。しかし、そこから伝わってくるのは唾液の冷たさではなく舌の温かさで、むず痒いような心地になる。
「じっくり味わってるんだ。邪魔しないでほしいぞ、と」
 レノは、捕まえた手を逃すつもりはなかった。親指にぐ、と力を篭めて、手首の血管を抉るようにすると、自然と抵抗の力が抜けていく。それをいいことに、レノはとうとう指ごとチョコにしゃぶりついた。指の第二関節までを飲み込んで、舌の上で転がすと、チョコレートはどんどん小さくなっていく。
「…ン……」
 反論に貸さなかった耳は、相手の小さな煩悶を聞き逃さなかった。レノの細めく開いた瞳に、クラウドが高揚を噛む姿が見えた。
 胸がすくと同時に、腹底で欲の疼くのがわかった。こんな状況だ。四六時中飢えている浅ましい獣が、期待以上の美味を前にして興奮しないわけがない。
 舌には甘さが浸透し、口腔にも充満している。いつの間にかチョコレートはなくなってしまって、指先にこびりついたものまで余さず味わってしまおうと、頬をすぼめて細い指を吸い上げる。
「っ、おい……ッ」
 もう終わった、十分だろう。言いたい言葉は奪われてしまった。
 クラウドの指はべっとりと汚されてしまって、グローブの内側まで唾液に塗らされてしまった。チョコレートの味が染み付いていて、革のツンとした臭いと、甘い残り香に、レノはうっとりと瞳を細めた。
「美味かったぞ、と」
 握られた手首が降ろされていき、ようやく終わったのだ、と、クラウドは安堵した。しかしその短慮さを、彼はすぐに後悔する。
「お返しだぞ、と」
 降ろした腕を強く引かれ、かぶりつくような獰猛な接吻けが襲ってきた。よろめく体を支えようと、もう一本の腕がレノのジャケットに掴みかかる。
 声を上げる暇もなく、痛みに隙を許してしまう。触れた舌先から伝わってきたのは、意識も眩むような魅惑的な甘さだった。
「ふ……ン……」
 乾いた空気、寒い風にすっかり体は冷やされていて、触れ合う場所から溶け出していく。絡み付いてくる舌から香ばしさが伝導して、同じ味が口腔に広がっていく。
 バレンタインのチョコレートは量産されていて、もはやそれ自体に大した意味は無い。もし意味があるとすれば、その日、その時にこうして共にいて、同じ色に染まっているのだという事実だけ。
 冷えた指が跳ね上がり、そしていつしか、大人しくなっていく。ぴちゃぴちゃと音を立て、塗りつけるような接吻けに、次第に舌を絡ませて、互いに舐めあうようになるまで、そう時間はかからなかった。
 濃密な息が白く溶けて、体の内側を濡らす行為が、その奥に潜む熱を呼び覚ます。甘さに痺れた舌と舌が細い橋を架けあって、繋がりの解けた二人の間に、同じ欲が燃えていた。
「こいつは…こまったぞ、と」
 寒い冬の夜だというのに、クラウドは頬を温めている。わざとらしい物言いだと感じたけれど、小賢しいこの男を言い負かすことができないことはわかっていた。
「このままじゃ、帰れないぞ、と」
 口の端を舐め取って、レノがニヤついた笑みを見せている。恨めしくて、口惜しくて、ジャケットを摘むクラウドの指に力が篭もった。
「どうする、クラウド?」
 馴れ馴れしく、名前を呼ぶな――そんな反発も言葉にならない。点された炎を消してしまわないことには、家には戻れない。そして、それを吐き出させることができるのは、今この時、この男しかいなかったから。
「……最悪だ」
 噛み締めるように、クラウドは恨み言を吐き出した。レノは、そんな悪態をつくクラウドの姿も、可愛いものだと思える余裕を持っていた。
 この日三度目の勝利を掴んで、レノは自分の選択が間違っていなかったのだと確信する。いつも、いつでも、大穴狙い。無茶な博打への臆心も、そうして得られる報償の旨さには敵わない。
 停まったばかりの二輪車が、エッジの街を駆けていく。行く先はどこでも構わなかった。どこに行ったとしても、することは一緒なのだから。
 二人分の影が、都会を駆ける狼に運ばれていく。その夜、その後、彼らの姿を見た者はいない。甘さの消えてしまわぬうちに、性急に繋いだ躯から零れた声を、聞いた者もまた、誰もいない。

【 END 】