- NOVEL
- Final Fantasy 7
- Another BL
- いかで烏は愛を知りけむ
いかで烏は愛を知りけむ
捏造設定有。複数カプ要素有。
ミッドガルにおいて、ソルジャーはそう珍しい存在ではない。そもそもソルジャーを排出している神羅カンパニー本社ビルが零番街に聳えているし、有事の際──稀ではあるが、軍でも対処しきれない事案が発生すれば、ソルジャーは速やかに異変を鎮圧し事態の収拾を図る。
ただしそれも2ndや3rdの担当であって、1stが下町に顔を見せることは少ない。最近1stに昇進したばかりの黒髪のソルジャーは、任務でもないのにおせっかいにも市民のお使いに奔走していたようだが、それは彼が人懐こい性格であったからだ。
そんな彼が2ndであった頃から、そして今も変わらずにカンセルは有事が無くともスラムによく出没していた。移民の吹き溜まりとなっているスラムでは、プレートの上では得られない情報を収集できる。信憑性の高いものから眉唾なものまで様々あったが、それらはどれもあらゆる意味でカンセルの役に立っていた。
ニブルヘイムの異変を察知できたのは、自称生存者の情報をやはりスラムで手に入れたからだった。しかし、当の本人は存在しないのかそれとも既に始末された後だったのか、実際に会うことは未だ出来ていなかった。
ザックスに最後のメールを送ってから、もうしばらく経つ。やはり彼からの返信は無く、彼がそこに居たかどうかの確証も得られていない。
ソルジャーは、昼夜問わずいついかなる時でも任務があれば出動し指令を達成するスペシャリスト集団だ。しかしそれは、言い換えれば、会社の命令がなければどこへ行くこともできないということになる。
自分の足で確かめることができないカンセルは、時間を見つけては、砂漠に埋まったたった一粒の角砂糖を探す蟻のように情報を収集した。これまでと同じように、そして今まさにそうしているように。
「さて、と……」
ネタを仕入れるなら女か酒場をあたるのがお決まりだろう。しかしカンセルは前者をあまり活用できていなかった。
何度か試してはみたが、カンセルは異性とのやりとりや駆け引きを楽しめない性分で、効率性に気を取られるあまりに相手の気分を害してしまうことが少なくなかった。
だからカンセルは、より合理的な方法を選択した。女性に強い情報屋とパイプを繋ぎ、ギブアンドテイクの関係を築いたのだ。
彼女──と言っては語弊があるかもしれないが、とにかくその情報屋はウォールマーケットに棲んでいた。女手ひとつでジムを経営していて、蜜蜂の館にも出入りできる有能な人物だ。
彼女とのデートという名の会合までには、まだ少しの時間があった。伍番街スラムの武器屋で馴染みの主人と会話した後、カンセルはウォールマーケットまで歩いていくことにした。
店を出ると、廃車や廃材を使ったバラックを通り過ぎ、カンセルは町外れへと向かって歩いた。急ぎのミッションはなかったから私服に着替えることもできたが、知り合いに会いに行くため変装をする必要は無い。
剣を担ぎ、神羅製のマスクを被ったカンセルに近づいてくる人間はいなかった。皆、カンセルが何者なのか知っていた。上と違ってスラムは安全な場所ではなかったけれど、ソルジャーと知っていてわざわざ喧嘩を吹っかけてくるような莫迦はいない。
そもそもカンセルは、こうした格好をしていなければソルジャーには見えない男だった。マスクの下で、今日もカンセルの瞳は黒々とした光を溜めこんでいる。
その特性が功を奏したこともあった。ソルジャーであると気づかれると、余計な争いや警戒、誤解を招くことがある。
しかし一方で、目の色を知られた後に本当にソルジャーなのかと疑われることもあった。大抵は身分証で納得するが、それでも信用しない者には強硬手段を取らざるを得ないこともあった。
少なくとも今、人気のないスラムの道を歩いていく分にはこの格好で正解だったと言えるだろう。スリやゴロツキに狙われることもなくなるし、視界が広い分、モンスターが出没しても迅速に対応できる。
ミッドガルはいつもの曇り空だった。そう遠くない空で、分厚い水蒸気の塊が薄紫や橙色に染まっている。
コンドルフォートで見た夕日はべらぼうに美しかった。一瞬任務のことなど忘れて見惚れてしまいたくなるほどに。
同じ空を、どこかで友人も見ているはずだと思っていた。神羅ビルでの別れが最後になるなんて、可能性は認めていても確信はしていなかった。
カンセルはソルジャーで、ザックスもソルジャーだ。ソルジャーの仕事は常に危険と隣合わせだ。
いつ別れがきてもおかしくはないが、戦争が終わった今、ザックスとならばいつだって、何事もなかったかのように再会できると思っていた。だってザックスは、およそ戦闘員で殺戮者であるなどとは到底思えないほど、気さくで気のいい朗らかな男だったから。
しかし、会社は突然ザックスの志望を通達した。ソルジャー部門を吸収した治安維持部門の統轄ハイデッカーも、ソルジャー二名の殉職について詳細はなにも説明していない。
だから世間的には、ザックスもセフィロスも既に亡き者となっている。その報を知った時、カンセルが直感的に抱いたのはスラムに咲く花の主への同情だった。
友の死を嘆く感情や悲しむ気持ちは、不思議と浮かんでこなかった。あまりに唐突であまりに簡潔な情報だったから、知覚は出来ても理解できなかったのだ。
カンセルはザックスのことが好きだった。ザックスが他の誰を愛していたとしても、自分を特別に愛していなかったとしても、カンセルはザックスを特別に想っていたし、それを誰にも悟られないようにすることが苦ではなかった。
ザックスはいい奴だ。だから好きになった。協力したい、助けてやりたい、力になりたいと思った。そんな彼が大事にしていて、そんな彼を大事に想う少女にとって、彼の訃報はどんなにつらい報せだろうか。そう思ったから、カンセルは他の仕事を投げ出してすぐに少女の元へと向かった。
その日、彼女はいつものようにスラムの教会にいた。英雄セフィロスとソルジャーザックスの訃報は、テレビや新聞、ありとあらゆるメディアで報道されていた。彼女が知らないはずはなかった。けれど彼女はまるでいつもと変わらずに笑顔で花を世話していた。
その姿を見たカンセルは、拍子抜けしてしまった。彼女を取り囲む子供たちのほうが余程動揺していて、少女はもっぱら彼らを励まし宥めることに集中していた。
少女からは、悲しみや驚き、落胆や悲嘆は微塵も感じられなかった。強がりかとも思ったが、虚勢にしてはあまりに飄々とした彼女の振る舞いに、カンセルはある種の失望を感じた。
それは確かに失望だった。我ながら珍しい感情だったから、カンセルはよく覚えていた。
悲しんでいるのではないかと勝手に心配したのはカンセルだ。しかし相手が全く動じていなかったから、疑念が生じたのだ。
彼女にとって、ザックスはなんでもない相手だったのかもしれない。その死を聞いても全く心が動かないのは、彼女がザックスをどうとも思っていなかったからではないか。
そうではない証拠を探す前に、カンセルはその場を去った。自分の精神が、頭脳が正常に機能していないことを悟ったためだ。
それからカンセルは、スラムの教会に近づくことができないでいた。自分の精神が、頭脳が正常に戻ったかどうか自信がなかったからだ。
教会とは反対方向へ向かっている今も、カンセルの脳裏にはあの少女のことがチラついていた。それと同時に苛立たしさも募り始め、良くない傾向だとカンセルがため息をつこうとした時、彼は公園に辿り着き、同時にピンク色のワンピース姿の少女を見つけた。
「────ッ」
カンセルは驚いて、その場に立ち止まってしまった。彼女がいたことに驚いたのではない、まったくの無防備だった自分に驚いたのだ。
ウォールマーケットへは、零番街から電車を使い、伍番街スラムを経由して歩いて行くのがいつものルートだった。そして伍番街スラムに居て、彼女と出逢う可能性はゼロではなかった。
だからカンセルは、もっと警戒をしておくべきだった。彼女のことを考えるあまりに、彼女との遭遇を予防するのを忘れていた。
「あ、ザックス!」
自分のことを言われたのだと、カンセルはすぐには気がつかなかった。カンセルが隠れる前に、子供たちがカンセルの姿を捉えた。ドーム型の滑り台のオブジェの上に立っていたから、入り口までよく見えていたのかもしれない。
「え?」
振り返った少女の側には、いつかザックスが作っていた花売りワゴンが停められていた。公園の入り口に立つカンセルを見つけると彼女は少し緊張して、そしてゆっくりため息をついた。
口をしっかり閉じていたから、カンセルのため息は鼻から抜けていった。すべり台から飛び降りると、子供たちは駆け出して彼女のワンピースにまとわりついた。
「ほら、エアリス。ザックスが帰ってきたよ!」
少女の服をグイグイ引っ張り、少年が声を上げる。彼女はそれをやんわりと否定すると、苦笑を浮かべてカンセルに声をかけた。
「ごめんなさい。人違い、しちゃったみたい」
情報屋との待ち合わせまではまだ少し時間があった。このまま通り過ぎてもよかったけれど、いずれ向き合うべき問題であるとはわかっていた。
こんな、非力で平凡で無害な少女にいつまでも引け目を感じていたくはなかった。だからカンセルは、マスクを目深に被ったまま少女へとゆっくり近づいていった。
「よう、久しぶり」
カンセルの行動に、エアリスは驚いたようだった。先程声を上げていた少年が、彼女をかばうように間に割りこんでくる。
訝しげな幼い視線をビシバシと感じながら、カンセルはその警戒網の外側で足を止めた。足を止めた頃、エアリスはようやく気付いたようでハッとして目を瞬かせた。
「あなた、ザックスの友達の……」
エアリスと会ったのは、もう随分前になる。その時に自己紹介は済ませていたが、名前を忘れられることにカンセルは慣れていた。
「そう、ザックスの友達の」
それ以上伝える必要があるかどうか、カンセルは判断しかねていた。カンセルの予想通りなら、これ以上彼女と親しくしておく理由はない。
けれど、違うかもしれない。どちらかと言えばそうであって欲しかった。だからカンセルは、確かめることにした。
「それ、まだ使ってるのか?」
カンセルはそう言って、エアリスの傍らにある花売りワゴンを指差した。
足元の車輪が一つ外れていて、残りの三個でどうにかバランスを保っている状態だった。負荷がかかっているからだろうか、他の車輪にもガタがきていていつ外れてもおかしくはない。
何台かあるワゴンの内、これが一番軽傷なのだと前に教えられていた。それも壊れてしまったら、もう後が無いのではないか。
「大丈夫。ちゃんと直してもらうから」
カンセルの心配を他所に、少女は笑顔でそう言った。けれど、直してくれるはずの男はもう既にこの世に居ない。
それを知っていて、それでも尚そんな笑顔が出来るのか──。ザックスをなんとも思っていないのではないかという一番の疑念は揺らいだけれど、少女の思考が読みきれずに、カンセルはマスクの下で表情を渋くした。
そのことに気がついたのか、エアリスは『あっちで遊んでて』と子供たちを送り出した。カンセルとエアリスを少しの間見比べて、子供たちは再びすべり台の方へと走っていった。
「あの子たち、ソルジャーを見かけると、すぐに『ザックスだ』って言うの」
子供たちを見送ったエアリスの頬で、柔らかそうな髪が揺れた。マスクの下で、カンセルはその横顔をジッと見つめていた。
困ったように眉を寄せて、けれど少女は嬉しそうに口唇を綻ばせていた。彼女が彼を呼ぶ音に、やはり悲嘆や悲哀は感じられない。それがどうにも不可解で、カンセルは慎重に言葉を選んだ。
「……聞いてるんだろ?」
なにを、と、口にだすのが憚られた。ザックスは死んだ、その事実の与える影響をカンセルは計りかねていた。
「うん。何度も言ってる」
そう言って頷くエアリスは、カンセルの遠慮と心配を必要としていなかった。彼女の微笑は変わらずそこに存在していて、カンセルは眉を顰めて続けて訊ねた。
「信じてないのか?」
信じたくない、とは少し違うように思った。彼女はまるで、神羅の発表などどうとも思っていないようだ。
信じたくないのなら、子供たちのように違うのだという証拠と証明を探すはずだ。けれどそれらを否定するエアリスに、カンセルの苛立ちは膨らんでいく。
「信じてないのは、わたしだけ」
胸の中で蠢き始めていたものが、それを聞いてピタリと止まった。カンセルの溜めこんでいた痛みと不快感は、エアリスのたった一言で嘘のように消え失せた。
即座に反応できなくて、カンセルの開いた口から間抜けな吐息が抜けていった。黒い両瞳で少女の静かで綺麗な横顔を凝視しながら、喉を呼吸で潤すとカンセルは呟いた。
「どうして?」
カンセルだって、会社の発表をすぐに信じたわけではない。なにかがあった、それはわかった。けれどそれでザックスが死んだなどとどうしてすぐに納得できよう。
だから、否定する材料を探した。証拠、根拠、事実を探した。けれどなにも見つからなかった、まったくなにもわからなかった。
だからいつのまにか、そうかもしれない、その可能性もあるなどと世間一般の認識に思考を毒されていった。最初から確信できるだけのなにかなど持っていなかった。
「言っても、きっと信じない」
エアリスは首を傾げて、笑って答えた。
はにかむようなその笑みには見覚えがあった。莫迦なことを言っているのだとわかっているように感じた。
それはきっと、カンセル自身がよくしている表情だった。
「……ザックスが、生きてる?」
もう一度喉を鳴らした後、確かめるようにカンセルは言った。今度は、彼女の証言と自分の得てきた情報とを照合するためだった。
これは既に、世間話ではなくなっていた。巻きこんだことをすまないとは思ったけれど、カンセルは自身の調査活動にエアリスを利用していた。
「どこにいるのかはわからない。でも、きっと死んでない」
公園には、すべり台の上で追いかけっこをする子供たちの明るい声が響いていた。彼らには、そしてきっと近くにいるタークスには聞こえない小さな声ではあったけれど、エアリスはカンセルに大事なことを教えてくれた。
きっとそれは、相手がカンセルだったからではなかった。カンセルがザックスの友人で、その事実をエアリスが信じてくれていたからだ。
ザックスがいなければ、彼女はきっと口を開かなかっただろう。何故そう思うかの理由もきっと、伝えてくれなかっただろう。
「わかるの、わたし」
そう言うと、エアリスは手を持ち上げて祈るように自分の胸の前で組んだ。そうしてゆっくり目を閉じて、俯いて、動かない。
祈っているようにも見えたし、耳を澄ましているようでもある。だからカンセルは黙ったまま、彼女の様子を見守っていた。
ザックスは、ただで死ぬような男ではない。なにも言わず、なにも残さず勝手に消えるような男ではない。
そう信じたい、信じたくても疑念が生じた。けれどそれは、なにもカンセルの彼を想う気持ちが足りなかったからではない。
あり得ないはずの可能性を無心に盲信できるのは、きっと彼女が、目の前の少女が、特別な人間であったからだ。他の人間、カンセルにもない能力を持っていて、そしてその特殊性を彼女自身がしっかり自覚して、言い換えれば諦めているからだ。
「誰も、知らないんだ」
気がつくと、カンセルは彼女の助けとなりそうな事実を呟いていた。そっと目を開いた少女は、やはり驚いていなかった。
「そうなんだ」
残念がる風もなかった。驚いた様子もなかった。そうだと思った、と言わんばかりだ。
けれど少し、寂しそうではあった。その理由はすぐに彼女が教えてくれた。
「わたしも、知らないの」
指を解き、エアリスは首を振った。やはりか、と、カンセルは思った。
自分がどれだけおかしなことを言っているか、彼女はわかっているのだろう。だから、子供たちには言わないのだ。死んだものと伝えているのだ。
「けど、大丈夫」
その言葉は、自分の中の異質なモノを理解し把握し受け入れていなければ吐き出せない科白だった。自分の中にも異端性を抱えているカンセルにはよくわかった。
「なにも、感じなかったから」
『普通』でない人間は、『特別』であることを理解している。そして特別であることは決して良いことばかりではない。
だからそれを隠しているし、忌み恨むことだってある。けれど時折、それが役に立つこともある。彼女にとって、きっと今がまさにそうであったのだろう。
「そうか」
カンセルの口許はいつの間にか綻んでいた。胸も楽になっていたし、笑い出したい心地になった。
けれど笑ってしまっては相手に失礼になるだろう。だからなんとか微笑に留め、敬意でもってエアリスを受け入れた。
先刻まで、エアリスはカンセルにとって、『友人が大切に想っていた女性』だった。けれど今は、もっと近しくもっと親しく感じていた。
だから、安心して欲しかった。自分を信じる彼女の邪魔を誰にもなににもさせたくなかった。
「まあ、急に消えてそれっきりいなくなるようなタイプじゃないよな。そのうちひょっこり顔を出すんじゃないか」
カンセルはそう言うと、腰に手をあて、姿勢を崩した。疑心が取り除かれたせいか、ここに来た時よりも随分呼吸が楽になった。
「その時は、連絡くるだろ。女の子への連絡はマメな奴だからな」
俺にはきっと来ないだろうけど、と、カンセルは付け足した。実際、メール魔のカンセルからの連絡に、ザックスが返信をつけることは稀だった。
相手が女子ならすぐにメールするくせに、と、冷やかしたこともある。その時ザックスは慌てた様子で、連絡しようとする傍からメールを寄越してくるせいだ、と弁解していた。
その時の会話が懐かしい、とカンセルは思った。だからカンセルは、エアリスの微細な変化に気がつくのが少し遅れた。
「だと、いいけど」
そう言って、エアリスは苦笑した。ここに来た時に見たものとは少し違う、強張ったようなエアリスの表情から察したものは、今までカンセルが感じたことのないものだった。
まさか、不安を感じているのか。ザックスからの連絡が来ないかも、とでも思っているのか。
先刻あれだけ自分の力を信用できていたというのに。彼が彼女をどれだけ大事に想っていたか、誰が見ても明らかだろうに。
本命には奥手な男だったから、大切さが高じるあまり傷つけないよう接していたから、経験値の無い少女には足りなかったのかもしれない。確信が、確証が、根拠が少なかったかも。
だとしてもそれを自分が補うことは憚られた。嫉妬や羨望は無かったが、流石にそれは不相応だ。
それでも気持ちは焦れていたし、救ってやりたいとも思った。一度は疑い、呆れて恨み、憎みそうであった少女に、今日確かにカンセルは救われていたからだ。
「絶対そうだって。俺が、保証する」
そう言うと、カンセルは自分の胸をドンッと叩いた。そうして相手を見つめることで、伝わって欲しいと願った。
エアリスに差し出せるものは、カンセルの集めた情報の中には入っていなかった。伝聞でもない、代弁でもないものを口にするのは久々だった。
上司への報告ではなく、仲間への伝達でもない。生の声を届けることは勇気の要ることだった。
否定されるかもしれない、聞き届けてもらえないかも──それでも、なんとか伝えたくてカンセルは呼吸を呑んだ。
エアリスはびっくりしたように目を丸くしてカンセルを見つめていた。何度か瞬きをした後、口許に緩い拳を近づけて、ふふ、と可憐に笑い始めた。
途端にカンセルは不安な心地になった。これでは伝わらなかっただろうか。何か付け足す言葉はないか。慌てて探し始めたカンセルに、エアリスは笑って言った。
「ありがと」
エアリスは茶化すことも否定することもしなかった。少し恥ずかしそうでだけど嬉しそうでもあって。頬に溢れた髪を梳いてもまだ微笑ってくれていたところを見ると、信頼までとはいかなくても少しは信用してくれたようだ。
ふう、と、カンセルは安堵してため息をついた。やはり女性と接するのは苦手だ。予想外の反応をされてしまうし、なかなか思うようにいかない。
と、カンセルが自省し始めようとしたところで、カンセルのポケットでモバイルが唸り始めた。取り出して見てみると、もうすぐ約束の時間だとアラームが知らせていた。
「お仕事?」
エアリスの問い掛けにカンセルは顔を上げた。ああ、と曖昧に頷きながらモバイルを元に戻す。
「気をつけて、ね」
立ち去るべきか、カンセルは少し悩んだ。エアリスに覚えた親近感、可愛らしいと感じた気持ちをもう少し味わっていたくもあった。
けれどカンセルは、彼女に不審感を与えないことを優先した。それに、たった今得た感覚の消えない内に、その先の自分の選択を実践してみたいと思った。
「そっちも。遅くなる前に帰るんだぞ」
スラムでは、夕暮れを過ぎると夜行性のモンスターに襲われることもある。たとえ襲われたとしても、きっと近くにいるだろうタークスが対応するのだろうが、子供も一緒にいることだし、用心するに越したことはない。
カンセルはそう言い残すと、元々の行き先へと向けて再び歩き出した。
エアリスは、自分の力を信じていた。誰の意見にも──神羅の報道にも自分の気持ちにも左右されず、自らに与えられた特性を許容していた。
そういう方法もあったのだ、と、カンセルは痛感した。頭を殴られたような気分だった。自分の特性を熟知しているつもりでいて、カンセルは自分の特性に目を曇らされていたのだ。
知り得る知識、情報でもって辿り着けないものならば、自分の体で得たものに賭けてみるべきではないか。誰も辿り着けないような深くて濃密な魔晄の中で感じたものの中にこそ、カンセルの欲しい答えへの手掛かりがあるかもしれない。
けれどまだ、それを誰にも知られてはならなかった。科学部門の実験を利用するのはカンセルであって、カンセルの能力を誰にも利用されたくなかった。
次の検査に呼ばれるまでは、これまで通りの情報収集に努めるべきだ。けれど今夜、それをしようとするカンセルの表情は綻んだりしないだろうか。
新たな可能性を見出して、カンセルの気分は確かに高揚していた。ウォールマーケットで待つ知り合いと飲む酒は、きっと今夜はいつも以上に美味に感じることだろう。
カンセルは足早にウォールマーケットへと向かい、その道を塞ぐものはやはり誰もいなかった。