かくて烏の夢と知りせば<02>
元々は、カンセルの尋常でない魔晄耐性を計測するためポッド内に照射する魔晄濃度を上げていく実験だった。しかし今では、濃度を上げるのではなく一定濃度の魔晄の中でどれだけの時間を過ごせるのか──いわば魔晄への耐久性を計測するフェーズへと移行した。
カンセルの現在の最長記録は四時間。ここ三回の検査では連続で記録の更新が出来ている。
サンプルであるカンセルの肉体への影響と他の任務との兼ね合いから、検査の頻度は毎月から隔月に変更された。カンセルはこれまで通り検査に協力的だった。内心では次回の検査を心待ちにしてすらいた。
一定濃度の魔晄の中でなら、カンセルはしばらくの昏睡状態を経た後、自由に行動することができるようになった。行動といっても、なにも魔晄に満たされたポッドの中を徘徊していたわけではない。カンセルは、魔晄に包まれながら見る不可思議な夢の中で、聞こえてくる声を頼りに探索を続けていた。
サンプルポッドの中で、カンセルはいつもおかしな体験をしていた。周りのざわめきに誘われるように目を覚ますと、あたりには誰もおらず、眩しかったり真っ暗だったりした。
とてつもなく広い空間に浮かんでいたり沈んでいたり、足をついて歩くこともままならない時もあった。眩い時はまだゆっくりあたりを散策することができた。注意すべきは暗い時だ。魔晄の中で見る闇は寒く深く恐ろしく、ソルジャーとして人並以上の危険に対して免疫のあるカンセルであっても、死の予感を払拭できず実験を中断だせたことも何度もあった。
ここ最近では、暗くない場所で目を覚ますことが多くなった。今回も薄っすらと瞼を開けたカンセルは周りの明るさに安堵して、そっとため息を洩らした。
カンセルは、温かみのある光の中に浮かんでいた。右手を開いて見下ろすと、薄緑色の煌めく風が指と指の間をすり抜けていく。
カンセルはまず天を仰いだ。奥の方が揺れて見えて、まるで水面の底に立っているような感覚を覚える。
次に左右を見渡すと、だだっ広い空間であることが確認できた。視界を遮るものは一切無く、人っ子一人いやしない。
最後にカンセルは自分の下を覗き見た。足の下になにもないというのは恐怖だ。それにも随分慣れてはきたが、ここが空中であるとして、少しでも動けば地面のある場所まで落ちていくのではないかという懸念が生じる。
「さて、と……どうかな」
ぎゅっと拳を握り締めると、カンセルはすっと足を下ろしてみた。爪先がなにかに触れて、カンセルは度重なる幸運に感謝した。
今度はどうやら床のある場所に辿り着けたようだ。歩けるというのはありがたい。前に進んでいることを実感することができるからだ。
靴裏にしっかりとした質感が跳ね返ってきて、体重を預けることへの不安を払拭すると、カンセルは両足でバランスを取って立ち上がった。そうすると今までそこに浮かんでいた事実が不思議で奇妙なことのように思えてくる。
「それじゃあ、行くか」
その場で何度か足踏みして、カンセルは顔を上げた。マスクをポッドに置いてきたお蔭で、カンセルの頭はいつもよりも軽やかだった。
ここでは、魔晄色でない目を隠す必要はない。誰もいないのだから、どう見られるかを気にするなんて無駄なことだ。
むしろカンセルが気にしなければならなかったのは、人目ではなく人そのものだった。マスクが無い分視界は広い。どんな変化も見逃すつもりはなかった。
「……………」
カンセルの周囲にはぼんやりとしたもやのようなものがたちこめていた。魔晄を薄めたような色の空気に、時折エメラルド色の煌めきが舞い上がったり舞い降りたり吹き抜けたりするのだ。
さあ、今日はどこを探ろうか──。手始めにカンセルは目を閉じて、両の耳をそばだてた。
キン、と、痛いほどの静寂がそこには充満していた。なのになんだかザワザワしていて、風ではない、人の気配にも似た違和感をもやの向こうに感じている。
右後方にぞわりと走る悪寒があって、カンセルは目を開けた。それはあまり気持ちの良いものではなかったけれど、カンセルが知覚できる数少ない手掛かりだった。
「あっちか……」
カンセルは踵を返し、自分の感覚の反応した方向へと向き直った。視線にも似たじっとりとした不快感は、あたりを漂う淡い光では隠し果せるものではない。
とりあえず、カンセルは歩き始めることにした。まだ時間はあるはずだ。どれだけ歩けばその違和感に近づけるかはわからなかったが、そちらへ行ってみないことには欲しいものは得られない。
ここが一体どこなのか、カンセルは何度も想像を巡らせた。自分の意識の中なのか空想の中なのか──魔晄の中で見る夢の世界は果てしなく広くてシンプルなのに複雑だ。
もう何度もこうして潜ってきたけれど、カンセルはその度に誰の声ともわからない歌声を耳にした。声の主はどうやら女性らしかったが、カンセルの交友関係にある声とはどれも違い、また彼女の操る言語もカンセルの知らないものだった。
意味や内容は理解不能で、周囲で蠢くざわめきに紛れてしまって聞き取れないことも多かった。カンセルが拾うことができたのは、『セフィロス』という単語だけ。友人と同時期に行方不明となった男の名前を知る女──いまのところそれだけがカンセルの友人に繋がる唯一の手掛かりだった。
「……遠いのかね」
しばらく歩いてみたが、景色が変わる様子はなかった。先刻感じた悪寒の気配は未だそこに存在していて、けれどそれが濃くなる様子や近づいているという実感もない。
今回は、随分遠くに放り出されてしまったようだ。はぁ、とカンセルはため息をつきたい気分になった。
その時、一歩踏み出した足裏から凍りつくような怖気を感じてカンセルはその場に立ち竦んだ。
「────ッ」
しっかり覚悟していなければ、実験の中断を余儀なくされたかもしれない。意識が揺らぐほどの緊張が足裏から全身に伝わった。
カンセルはソルジャーだ。自分が普通ではないこと、普通よりも強いことは十分に自覚している。
けれどそんなカンセルにすら畏怖の感情を抱かせるほどの、捕食者の存在感が遠くから滲み出してくる。それこそカンセルが捜していたもので、カンセルは逃げ出したいほどの恐怖と駆け出したいほどの喜びの両方を味わった。
「居やがったな」
そう呟きながら、カンセルはじっくりと口唇を舐めた。挑むように足を踏み出すと、そのまま早足で駆け出して行く。
殺気のような挑発は一瞬だったが、カンセルは目標物をしっかりと見定めた。それは必ずそこにある。だから後は無心でそこへと辿り着くのみだった。
カンセルが急ぐと、周りの色がだんだんと濃くなり始めた。いい兆候だ。このまま行けば五分もせずに風を感じられるはずだ。
次第にカンセルの呼吸は弾み、体温が上がり始めた。いや、周りの気温が急に下がったのかも知れない。カンセルの予想通り、カンセルは走れば走るほど自分の切り進む空気とは違う前方から押してくるような風圧を感じ始めた。それは時折、ビュウ、とカンセルの耳を掠め、カンセルの求めていたものの予感を連れてきた。
「…Ve…………………as………me…………as……」
明るかったはずの世界はいつの間にか色濃く変わり、更にその奥の方は一層暗色に染まっている。一度足を踏み入れれば二度とは戻れないような、そんな気にさせるほどの暗闇へと続いている。
けれどカンセルはもう何度もそれに挑み、ギリギリの生還を果たし続けてきた。今度もそうなってやる、出来ればきっとこの奥にある手掛かりを捕まえて──。そう心に決めていたから、カンセルの足は大胆に自分を前へと運んでいった。
「……ni…ve………………ne…………fa…………」
耳の脇を刃のような冷たい風が吹き抜けていく。嵐にも似た突風に責め立てられて、カンセルは息を弾ませ、奥歯をギリリと噛み締めた。
以前までは、ただ聞こえていただけだった。得体の知れない歌声に耳を澄ませ、カンセルは彼女の言葉を聞き取ることに集中していた。
今ではもう、声のする方角に目星をつけて近づいていくことができる。ここ数年で事態は着実に進展していて、カンセルはその事実にある種の自信を実感していた。
何度も確かめた覚悟もあって、カンセルは前進する足に躊躇を感じていなかった。それだけ彼を大切に想っていることをカンセルは自覚していた。
「…Ve……………veni……ne…………fa…as……」
たちこめていた薄もやはいつの間にか煙のように濁ってしまった。元々景色が見えたわけではなかったけれど、視界と同時に世界まで狭まったように感じる。
胸に吸いこむ空気はもはや冷気と言っても間違いではない。激しく運動していなければいつ肺が凍り始めても不思議ではないほどだ。
「…Sephiroth…」
今日も確かにその女は消えた英雄の名を呼んだ。聞いたことのある音はすんなりと耳に馴染み、カンセルにもう何年も会っていない男の顔を思い起こさせる。
「…Sephiroth…」
もう何百メートル走っただろうか。ソルジャーの肉体は通常と比べて強化されてはいるが、ここの空気が独特だからか著しい寒さのせいか、カンセルの肉体は異変を感じ始めていた。
だんだん呼吸が苦しくなって、駆け足は重くなり肌は痛みやがて汗が滲み出す。けれどそんな些末な変化に囚われてなるものか。ここまで近づけたのだ。こんなところで音を上げるわけにはいかない。
「はぁ……く、そ……ッ」
女の歌はまだ止まない。その声に集中しすぎるせいか、その他のざわめきが次第にうるさく感じられる。
いや、実際うるさくなっているのかもしれなかった。濁った空気は雲のような重たさを孕み始め、暗さと狭さと冷たさが同時にカンセルに襲いかかる。
このままここにいては、呼吸が詰まってしまうんじゃないか。確かに前には進んでいるのに前進している気がしない。
疲労と焦燥と苛立ちがカンセルの足を重たくする。この場所から逃げ出したい衝動が暗くなるにつれ深まっていき、カンセルはそれを踏みつけるように尚も早くより早く前へと進もうとした。
この不気味な雲の海の向こう側はどこへと続いているのだろうか。一切を拒絶する深淵の闇か、空気も凍てつく氷河の渦か──そんな場所に本当に欲しいものがあるだろうか。
期待薄だ、もう止めよう。また二ヶ月後に試せばいいことじゃないか。
ここまで来れれば十分だ、引き返せ、逃げ帰れ──。そう叫ぶもう一人の自分でない者の声に、カンセルの脳内は徐々に侵蝕され始める。
これ以上進んじゃいけない。来るな、行くな、近づくな──騒がしかったざわめきは今や確かな言葉となってカンセルの頭を揺るがす。手掛かりである女の歌すら掻き消すほどに、カンセルの精神を怒号と憎悪で蝕んでいく。
「邪魔するな……俺は、まだ……──ッ」
もう一歩、あと一歩深淵に近づきたかった。牽制とも言えるこの現象が、カンセルの恐怖だけでなく探究心を刺激していた。
この奥にはなにかがある。歌の導く先、声に守られたその先にそれは確かに存在している。
そこに辿り着けるのは自分だけだとカンセルは過信していた。特殊な体質を持ち、確固たる自我と使命を自覚している自分であれば、きっといつかは手が届くと信じていた。
けれどカンセルは、自分の無謀と傲慢とを思い知った。一歩踏みこんだ足裏に、心臓が貫かれたような錯覚を覚えるほどの、空恐ろしい冷徹さが犇めき敷き詰められていたから。
「か………、は………ッ」
呼吸も出来ない緊張の中でゆっくりと見下ろすと、カンセルの右足は硬質な闇色を踏み締めていた。後ろにある左足とは温度も質感も異なっている。そこから感じる憎悪と怒りにカンセルは硬直していた。
カンセルの得意分野は諜報と陽動で、けれど過酷な戦闘なら既にいくつも経験している。それでも、カンセルはこれまで、少なくともこんなにも強烈でこんなにも攻撃的な敵意を相手にしたことはなかった。
カンセルが有能だからかそれとも臆病だったからか、その闇を踏んだ瞬間カンセルは生還への諦めと死の襲来を直感した。これまでのように実験の中断を選べるような隙さえ無い。力及ばず散ることへの後悔を感じるよりも早く、雄々しく突き抜けるような声がカンセルの硬直を解いた。
「おい!」
それは、確かに声だった。カンセルを誘う歌声でも脳を揺さぶる罵倒でもない、耳に届き鼓膜を震わせ伝わってくる音だった。
意味はわかる。誰かが呼んでる。誰かが呼びかけている。ならば誰だ、どこにいるのか──。反射的に視線を上げて夢中で探すカンセルの眼に、なにか白く、ひらひらと舞い落ちてくるものが見えた。
「あれ……は……」
瞼をピリつかせ口唇を震わせて、それを凝視するカンセルは自分の目を疑った。まさかこんな場所で、そんなモノを見つけるとは夢にも思わなかったからだ。
暗雲の中から現れた一枚の羽根は、ひと目で見て白だとわかる。どんな闇色にも属さない純白は、思わず手を伸ばさずにいられないほどの美しさだった。
「こっちだ」
その声は、やはりカンセルに語りかけていた。瞠いた眼で捜してみると、幾重にも重なる煙の雲のその上に、なにかの影が揺れ動いているのが見えた。
「あ……、おい……!」
先刻呼吸すらできなかったカンセルは、縮こまり掠れた声を響かせた。遠くに視えた人影には腕を伸ばしても届かない。煙をかき分けるようにして落ちてきた羽根を捕まえると、凍てついて強張った体の緊張が一気に解けて、空でも飛べそうなほどの勇気と興奮が湧き起こってきた。
「待てよ!」
大きな声でカンセルは叫んだ。地面にへばりついた足で蹴り出すと、カンセルはなにもなかった場所から上へと繋がる段差に届いた。
こんなところに階段などあっただろうか、右手にしっかと握り締めた白い羽根の効果だろうか。なんだっていい、目標物が定まればあとはひたすら追いかけるのみだ。
「ふ……ッ、は……はぁ、ハァ……ッ」
視えない声を手繰っていた時よりも余程カンセルは早く走れた。後ろに置いてきたものを恐れていたからも確かにある。
早くその場を離れたかった、そのための理由を得た。雲の連なりに飛びこんで人影を目指して駆ける。胸は確かに弾んでいたが、階段を昇るにつれどんどん空気が軽くなって呼吸は楽になっていた。
「はぁ、はぁ……ッく……、はぁ……ッ」
視えない段差を何段も飛ばし、カンセルは前だけ、上だけを見据えていた。後ろを振り向く勇気は無くて、相手を見失うことを恐れた。
足元を確かめる余裕などなかったけれど、足を踏み外すことはなかった。体にへばりついてくる重い雲を引き離し、上へ上へと昇っていくと急に開けた場所に出た。
「うっぷ……ッ、ふ……ここは……?」
強い光を身に浴びて、カンセルは思わず足を止め目を伏せた。その場で何度も瞬きをして明るさを味方につけると、探していた人影はカンセルの視える場所で立ち止まってくれていた。
「お前は…………」
息苦しいほどに暗い場所から最初の明るさまで連れ戻されて、未だチカチカとした眩さに理解を邪魔されてしまう。カンセルは目を細めながら慎重に人影を見つめていた。それはどうやら男の、成人した男の姿に見えて、けれど絶対的に異質なものがその背中から生えていた。
「……誰だ、あんた……?」
思わずカンセルは無防備な科白を吐いた。背中に翼の生えた人間など見たことがない。けれど装飾には思えなかった。逆光であるせいか自分の瞳が明るさに慣れてないせいか、相手の顔は見えなかったがその男の背中ではボロボロの翼が羽ばたいていた。
「時間が無い」
男はそう言うと、カンセルに背を向けて薄緑のもやの中を泳ぎ──いや、飛び始めた。カンセルは慌ててそれを追いかけた。驚きの連続に混乱してはいたが、彼の導きに従うべきか思い悩む暇は無かった。
男はカンセルの速度に合わせて緩やかに飛んでいた。広い翼からは骨組みが突出していて羽ばたく度に白い羽根が散らばってしまう。
カンセルは右手に彼の翼から溢れた一枚を握り締めていた。痛むのではないだろうか、そうまでしてカンセルをどこへ連れて行きたいのか──。困惑するカンセルはそれでも彼を追いかけて、そうして彼が飛んでいく方角に一人の男が横たわったままどうやら浮かんでいるのを見つけた。
「───ッ、あれは……──!?」
今日はなんという日だろうか。底なしの恐怖に死を覚悟したばかりというのに、茫洋とした果のない空虚な世界で二人もの存在に出逢うことができた。
一人はカンセルを窮地から救い出し、自分の身を犠牲にしてまでもう一人へ辿り着く道を示した。そしてもう一人はカンセルがこれまでずっと探し求めていた人物だった。
「ザックス──!!」
見間違うはずがなかった。だって彼は、カンセルがかつてミッドガルで別れた時のままの姿でそこにいたから。
忘れないように何度も夢想し、繰り返し記憶に刻みつけてきた男が今確かにここにいる。傍らに降りて翼を伏せた男の脇を駆け抜けて、カンセルが彼へと腕を伸ばした瞬間、ザックスは目も覚めるほどの光を放ちカンセルを呑みこんだ。