星逢い<04>

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【 HOPE:CLOUD 】


 夕焼けは海に沈んで、紅を散りばめた波を夜が追いかけていく。見渡す限りの、大自然。緑豊かな森は砂浜近くまで広がっていて、寄せては返す小波は、爽やかな夏の香りを運んでいた。
 ボーンビレッジでの仕事を終え、クラウドの荷物は軽くなった。今日は時間を巻いてきたから、最後の仕事のための時間はたっぷりある。待たせていたフェンリルに指を伸ばし、クラウドはそのボディをいたわった。
 暑い中、大分無理をさせてきたが、もう一ヶ所、付き合ってもらわなければならない。
「行こう」
 しなやかで優美な曲線を辿った指が、グリップを握りしめる。跨がったクラウドは呟いて、妨げなく、緩やかに、フェンリルは眠りの森に踏みいった。
 ずっと、恐れていた。悲しみに押し潰されそうで、罪悪感に踏みにじられそうだった。
 壊れそうな自分を繋げるために、彼女を利用した。彼女は、エアリスは、クラウドの傲慢を咎めなかった。だからこそ、一層の罪悪感がクラウドの心を踏み荒らし、クラウドは努めて、この森から自身を遠ざけてきた。
 木々は白く透き通っていて、まるで、時が止まっているようだ。きっと遠い昔から、この森は眠ったままなのだ。悠久の静けさが、眠る彼女を優しく包んでくれている。
 しかし、この特有の静けさは、これまで幾度も、クラウドの心を騒がせた。
 よく冷えた寂しい空気が、クラウドの頬を掠めていく。もはや、恐れる必要などない。再臨した悪夢の合間に見た彼女の笑みが、クラウドの不安を拭い去った。
 天へと伸びる枝が重なるその向こうに、星の煌めく空がある。七月七日の今日、珍しく、世界は晴れ渡っている。
 今宵は、騒音や雑音に妨げられることもない。それどころか、ささやかな期待すら膨らんで、駆ける彼を逸らせていた。
 後輪に備えたバッグに詰めた、『願い事』を届けるために、クラウドはフェンリルを走らせていた。
 ぼんやりとした光が、クラウドに進む道を示している。森を過ぎ、初夏を忘れた涼しい空気がクラウドを受け止めた。
 唸るフェンリルを宥めて、クラウドはゆっくりと、空を仰いだ。デネブ、ベガ、アルタイルの三つが、一際目立つ光を放っている。
 点と点を結べば、それは天に雄大な三角を描く。晴れ渡った宙は、まるで宝石箱だ。
 ここを訪れる時はいつも、その美しさを愛でる余裕すら無く通りすぎてきたけれど、今宵は思わず、恍惚としたため息すら溢れ出す。
 クラウドは、鼻上に乗せたゴーグルの位置を確かめた。暫くの休息を挟み、フェンリルはクラウドをあの場所へと連れていく。
 風化しない絢爛さを誇る、谷間に広がる、忘らるる都。道の遺跡を辿りながら、クラウドは祭壇に続く泉へと降り立った。
 星の光を集めたように、あたりは薄い明かりが散らばっていた。水面は静かで、風も静かで、音の無い世界だった。
 砂は乾いていて、クラウドの足裏を包むように受け止める。携えてきたバッグを開くと、クラウドは最後の荷物を取り出した。
 長時間の移動に疲れたのか、それは少しくたびれていた。けれど、細い枝を掴んで掲げると、彩り豊かな装飾に飾られた笹の葉から、爽やかな緑の香りが広がった。
 フェンリルを置いて、クラウドは歩き出した。先日、カダージュたちから子供たちを取り戻すために訪れたその場所は、今宵は他に人気もない。
 肩に乗せた笹の葉が、クラウドの歩調に合わせてそよいでいる。店の笹から枝分けた七夕飾りには、たった一枚の短冊がくくられていた。
 ちゃぷ、と、音をたてて、湖水はクラウドの足を受け入れた。眠りを醒ます侵入者を追い立てることもなく、懐かしい訪問者を迎え入れてくれる。
 なだらかな傾斜を描く湖底に、クラウドの靴跡が刻まれていく。彼女を吸い込んだ優しい深淵の前に立ち、クラウドは、ふ、と息を抜いた。
「……来たよ」
 この訪問は、事故ではない。偶然でもなく、義務でもない。
 自らの意思で、彼はそこに立っている。伝えようと宣言した言葉は、長い沈黙のせいもあって、少しばかり掠れていた。
 エアリスは、なんと言うだろう。来ちゃったね、と労って、仕方ないな、と苦笑する。
 来なくていいのに、とはにかんで、取り澄ます姿が目に浮かび、クラウドは言った。
「これを、届けに来たんだ」
 たとえそれが幼馴染の頼み事であったとしても、クラウドには、仕事を選ぶ権利がある。いつものようになにかしらの理由を拵えて、回避することだってできたはずだ。
 しかし、彼はそうしなかった。ティファの文字で綴られたものと同じ願いを、彼もまた抱いていたからだ。
 水面を撫ぜて、そよぐ風が心地よい。短冊はひらひらと踊って、店に残してきた幼馴染の願い事が揺れていた。
『あなたの願いが、叶いますように』
 二年前、クラウドも、同じ願いを密かに唱えた。あの日願った願いは雨に濡れ、叶えてはもらえなかった。
 雨季に負けずに晴れ渡った今日、願いは、星に届くだろうか。彼女はもう、星に還ってしまったというのに。
「…ごめん、遅くなった」
 もう、取り返しがつかない。これも、生者の欺瞞に過ぎないのだろう。
 それでも届けずに、願わずにはいられなかった。彼女を置き去りにして、どうして他の願いを唱えることなどできるだろう。
「でも…どうしても、伝えたかったんだ」
 君は、なにを願うのだろう。皆のためにと願った君は、その胸に、どんな願いを秘めていたのだろう。
 もう大丈夫、もう、なにも心配はいらない。だから君は、君のために願っていいんだ。
 痛切な想いが胸を劈き、クラウドの眉がピクリと動いた。瞼が震え、指が跳ねて、切なさが心を締め付ける。
 クラウドは息を呑み、詰めた吐息を密やかに吐き出した。緩めた彼の口唇は、不慣れな形に歪に震えた。
「ここに、置いていくよ」
 差し伸べた手を離すと、静かな泉に短冊を繋いだ笹の葉が浮かぶ。軽く押しやって解き放つと、それは柔らかな波紋を広げながら中心へと流れていった。
 彼女を見送ったときのように、クラウドは胸に手を添えた。葉が潤み、飾りが水を吸い上げて、重くなった短冊は水面に吸い込まれていく。
 そっと退きながら、まるで溶けるように笹が泉に染み入っていくのを、クラウドは見送った。じわじわと広がっていく水の滲みが、文字を吸っていく。
 濡れた短冊が水の中をたゆたって、葉はゆらゆらと水面を泳ぐ。
 二人の託した願いを、星は聞き届けてくれるだろうか。いつぞやはつまらない伝説と一笑したけれど、今やクラウドは、風韻漂う伝承に切なる想いを馳せて、祈るような心地で天を仰いだ。
 妨げ無く広がる宙に、星々が煌いている。暗闇に散らばったそれらが連なって、一つの大きな河を作る。
 曇り無い空を泳ぎ、離れ離れの恋人達も、ようやく巡り合った頃合だろうか。そんな稚拙とも言える想像すら思考を掠め、クラウドは恥じらって、ふ、と小さな息をついた。
 下半身はたっぷりと泉に浸り、夜風はクラウドの肌を舐めていく。腕を下ろすと、滑らかな水がクラウドの手を包みこみ、その優しさは記憶に残る彼女の温もりを過ぎらせた。
「……そろそろ、行くよ」
 呟く言葉は独白でありながら、クラウドは確かに、彼女へと語りかけた。泉の中心に揺れる七夕飾りを見送って、青年は踵を返した。
 しっとりとした湖底を食み、クラウドは歩き出す。その時、湖水の中で舞い上がった砂に紛れ、一筋の光が浮かび上がった。
 クラウドは緩やかに歩みを進め、それに伴って、波紋が広がっていく。湖底から染み出す光は、ひとつ、またひとつと生まれ出で、泉の中央へと連なっていった。
 何かの気配、あたりを埋め尽くしていく存在を感じ、クラウドは足を止めた。
 モンスターの気配ほど、禍々しいものではない。気配を探ろうとしたクラウドは、視線を落とした爪先から、輝く翠が湖水を泳ぐのを見つけた。
 クラウドは驚き、振り返った。いつの間にか生まれていた光は、クラウドの足許を撫でながら、泉の中を泳いでいく。
 鮮やかな緑色を放ちながら、やがてひとつに紡がれていく眩さは、クラウドの双眸に驚きを与えた。いつのまにか、泉を埋め尽くした光──美しいライフストリームは、湖面のすぐ下に膨らんで、今にも溢れそうだった。
「な……っ」
 クラウドは、言葉を失った。神秘的な情景だ。見惚れるほどの美しさを前に、驚愕する青年の口から息が抜けていった。
 幾筋も浮かんだ光が泉の中心で絡まって、笹の葉を押し上げるように膨らみ始める。水面が盛り上がり、キラキラと煌めいて、まるで星が渦巻いているようだ。
 周囲は静かだったけれど、いつの間にか湧き出したライフストリームの轟きが、周囲に反響しはじめる。溢れる光を集約できず、膨張した湖面が裂け、遥かな空へと立ち上った。
「────っ⁉」
 クラウドは、思わず顔を伏せた。眩い光から視界を庇い、持ち上げた腕に身を隠す。
 驚きと混乱に、理解が追い付かない。ふりかかる泉の飛沫を浴びながら、押し流されないようになんとか踏ん張るクラウドを、溢れる光が包みこんだ。
 輝きの音が、鼓膜を支配した。爽やかな風が全身を押し上げて、クラウドに、ここが泉の中だということを忘れさせる。
 不思議と、息は苦しくなかった。噎せ返るほどの光に抱かれ、恐々と瞼を持ち上げると、エメラルドの目映さの中、天へと吹き抜ける光の渦の中心に、クラウドはいた。
 立ち上るライフストリームが、まるで湯気のように、夜空へと舞い上がっていく。それはまるで、満点に降る星へと続く、階のようだった。
 なんだか、不思議な心地だった。魔洸に抱かれるのは初めてではなかったけれど、今宵の彼らはなんとはなく軽やかで、わくわくするような、新鮮な興奮が感じられていた。
 光の渦の中、クラウドはそっと、腕を伸ばした。指先をすり抜けていく光は、やはり喜びに弾んでいる。
 生命の源であり、礎でもあるライフストリーム。彼らは、なにを喜んでいるのだろう。
 渦の中心で天を仰ぐクラウドの耳に、はっとする囁きが届いた。
「みんな、逢いに行くんだよ」
 甘く働く彼女の声は、新たな驚きと喜びを同時に呼び覚ます。あたりを見渡したクラウドは、同じ目線で隣に立ち、立ち上る光を見上げる彼女の姿を見つけた。
「エア……」
 その名を呼ぶことが、咄嗟に躊躇われた。彼は、夢なのか、現実なのか、この状況を未だ正確に把握できずにいた。
 驚愕して言葉を呑んだクラウドに、彼女はいつものように、優しく可憐な微笑を結ぶ。
「今日は、星合だから」
 そう言って、彼女は軽く、首を傾げた。聞き慣れない言葉に眉を寄せ、クラウドは沈黙した。
 クラウドの困惑を見守りながら、彼女はふわりと笑みを溢す。ライフストリームに包まれたエアリス、彼女もまたライフストリームで出来ていて、翠に溶けた彼女の像は、内側から眩く輝いていた。
「綺麗だね」
 エアリスの細い指が、天を指した。雄大に、絢爛に空を飾る三角を見上げる横顔につられたように、クラウドはまた、空を仰いだ。
「星になった人達が、星に呼ばれて目を醒ます。そして、逢いたい人に逢いに行くの。今日は、そういう日」
 伝承は、時の経過によって姿形を変えていく。あり得ない、なにかがおこる。会えないはずの人に会える―。それがいつのまにか、『願いが叶う日』に変わっていったのかもしれない。
「君は…?」
 どこかへ、誰かに、会いに行かないのかと、問う言葉は掠れてしまう。光を放ち、光に抱かれ、微笑む彼女を前に、クラウドの心は熱くなった。
「逢いに来て、くれたから」
 そう言って、エアリスは微笑んだ。
 豊かな栗色の髪は頬でくるまって、鮮やかな桃色に結ばれて背中を撫でる。大きな瞳は、まるでここに渦巻く光を集めたかのようだ。
「やっと、逢えたね」
 彼女は、あの頃とまるで変わらない。二年前と同じように、柔らかに微笑みかけた。
 しかし、そうしている彼女を見つめるクラウドの胸を、切なさと儚さがちくりと刺す。渋く眉を寄せたまま、クラウドは呟いた。
「…この前、逢ったばかりだ」
 あの日、エアリスの存在を、すぐ傍に感じていた。労って、手を差し伸べて、柔らかな温もりを降らせてくれた。
 傷みに蝕まれた腕に、彼女の優しさが染みこんだ。リボンの揺れる左腕を握り締め、クラウドは、足許へと視線を落とした。
 揺れる光はそれぞれ速度が違っていて、緩やかな弧を描くものもあれば、迷い無く天へと駆けていくものもある。クラウドが見下ろしていたものを、エアリスは見上げていた。
 彼女は困ったように眉を伏せ、苦笑を漏らした。
「うん、でも…」
 この姿は、そう長くは保てない。束の間の神秘が許す時間は短く、悠長にしている時間など無い。
 けれど、彼女は焦らなかった。誰かのもとへと旅立っていく光たちを見送りながら、彼女はそっと、呟いた。
「…私、あなたをさがしてた」
 花火の夜、きらきらと輝く光の渦の中で萌えた彼女の囁きが、新たな響きでクラウドの耳に溶けた。顎を持ち上げ、眇めた視線の先で、空を仰ぐ彼女の瞳に、それと同色のライフストリームが煌いていた。
「ずっと、あなたに逢いたかった」
 あの夜は確か、向かい合わせに座っていた。今夜は隣り合わせに佇んで、足許から絶えずに立ち昇っていく光に抱かれている。
 少し寂しそうにパレードを眺めていた彼女の横顔が、嬉しそうに微笑する。振り返ったエアリスと、それを窺うクラウドの視線が交わった。
「やっと、逢えた」
 あの頃、自分が自分でないことにも、クラウドは気づいていなかった。ようやく自分を手に入れたところで、クラウドはそれを持て余していた。
 今宵、星は静かに降り注いでいて、そして、静かに舞い上がっていて、あの時よりもたおやかに、二人を包みこんでいる。エアリスがそれを喜ぶ傍らで、クラウドは痛切な気持ちになって、口唇が震えそうになるのを堪えるのに必死だった。
 いつのまに、こんなに変わってしまったのだろう。あの頃は、一緒にいることは決して特別ではなかったのに、今こうしているひと時は、奇跡だともいえる。
 こんな都合の良いことがあるはずがない。夢か、幻ではないだろうか。そう思うことは無礼にあたる気もしたけれど、積もる罪悪感を抱えていた青年は素直に喜びに染まれない。
 それでも、焦りが疑念を振り払って、彼は苦い表情で贖罪を口にした。
「──ごめん」
 自分が自分であったなら、あんなことにはさせなかった。そう悔いても遅いとは知りながら、やはり悔やまずにはいられなかった。
 伝えたいこと、言いたいこと、したかったことは、山ほどあったはずだった。彼女に剣を振り上げて、その絶えるのを見ているしか出来なかった自分には、そうする資格すらないように思え、クラウドは眉間を渋くして、唇を噛み締めていた。
「…どうしようかな」
 くすり、と、軽やかな笑みの音がした。緊迫する空気には不似合いな旋律だった。
 恐々と、怪訝そうに、顔を上げるクラウドに背を向けて、エアリスはつん、と取り澄ます。
「お詫び。なにしてもらおう」
 そのまま数歩歩いていく彼女を、視線だけが追いかける。クラウドは黙って、続く言葉を待っていた。
 どんな叱咤も、恫喝も、受け入れるべきだと思っていた。夢の中で、思考の中で、クラウドは何度も、エアリスの罵声を浴びていた。
 今宵、どんな言葉が彼女から紡がれるのかを思うと、苦い予感がクラウドを苦しめる。足を止め、踵を返したエアリスは、楽しそうに首を傾ぐ。
「ウソ」
 彼女の背中で、結ばれた長い髪がふわりと跳ねる。思わせぶりな意地悪でクラウドを翻弄し、エアリスはくすくすと笑みを刻んだ。
 目を離していると、クラウドは独りでいるうちに、どんどん遠くにいってしまう。いつの間にか、声が届かなくなるほど深くまで沈んでいってしまうから、エアリスはいつだって気が気でないし、彼から目が離せない。
 小鳥のように振る舞う彼女を、クラウドは瞠目していた。腐し、詰り、罵る彼女の幻影よりも、余程たおやかに、彼女は微笑う。
「怒ってないよ」
 後ろに腕を組み、首を振る彼女の頬を、柔らかな前髪が包みこむ。それでもまだ不安は晴れず、顔を顰めていたクラウドに、優しい音が伝わった。
「ありがとう」
 驚いて、クラウドの硬直していた口唇が震えた。瞳は慌ただしく瞬いて、エアリスはそれを陶然と見つめていた。
 魔洸を浴びた空色の瞳は、ソルジャーの証。それがエアリスを見つめ、エアリスを映し出す。
 あの人と同じ、あの人と違う輝き。幾度もエアリスの心を打ち壊したその輝きを見つめ、心に喜びが満ち溢れていくようだった。
「助けてくれたでしょ」
 なんのことだか、わからない。助けられずに奪わせてしまった自分が、彼女のなにを救ったというのだろう。
 眉を寄せるクラウドに、エアリスは続けた。
「動けなかった。あの人の力、強くて…潰されちゃいそうだった」
 はっとして、クラウドの瞼が震えた。それを見つめていたエアリスが、緩く頬を綻ばせた。
 星の深淵で、禍々しい闇が光を押さえつけていた。握り潰し、蝕んで、屠り去ろうとしていた。
 恐ろしい記憶が、クラウドの背筋を冷やした。後ろに組んでいた腕を持ち上げて、エアリスは胸元に両手を結んだ。
「私の想い、私の願い──叶えてくれた」
 指の隙間を縫うように浮かび上がる光がすり抜けていき、それはまるで、彼女の心を掬っていくようだった。指を広げると、彼女の掌に包まれた光は、天へと一筋の弧を描く。
 彼らもまた、誰かに逢いに行くのだろう。それを見送るエアリスを、クラウドは見つめていた。
 エアリスの紡いだ想い、エアリスの願った願い。エアリスの結んだ力が引き金になって、星は星に救われた。
 あの時も、そしてつい最近も、彼女の力と彼女の支えにどれほど救われたことだろう。歯痒い思いを握り締め、クラウドは呟きを搾り出した。
「…助けられたのは、俺たちの方だ」
 星を救っただなんて聞こえはいいが、みんな、自分の思うままに振舞っただけだ。仲間たちを繋いだのは、エアリスの想いを解き放ちたい、と、同じ願い、同じ想いだった。
「仲間だもん」
 なんでもないことのように、それが当然であるかのように、エアリスは言う。すい、と目を眇め、窺うクラウドに応えて、エアリスが微笑う。
 一人だけ逝かせてしまったから、強すぎる絶望的な印象が、彼女を特別に感じさせていた。違う場所に立ってはいても、彼女は同じ高さに足をつけている。
 幻想でない彼女の言葉は、驚くほど滑らかにクラウドのささくれた心に染みこんで、憂慮と後悔を和らげ、薄らがせていく。気が抜けたと同時に、クラウドの胸から重苦しかった息が抜けた。
 ふと気になって、クラウドは尋ねた。
「──ザックスは?」
 見守って、助けてくれていたのは、エアリスだけじゃない。あの日クラウドは、剣を預けてくれた人の温かみをその背に確かに感じていた。
 彼女がここにいるように、彼もまた、誰かに逢いにいったのだろうか。問いかけるクラウドに、彼女は答える。
「たまには、二人っきりにさせてやるって」
 静かな、夜だった。当初こそ眩いほどだった光の渦も勢いを緩め、あたりの静けさが強調されていた。
 この二年、一人でいたクラウドを、様々な断罪と自責が苦しめてきた。しかしそれも、二人でいる今は愚かしい記憶でしかない。
 今、二人は初めて対面していて、互いを阻んでいた確執も削ぎ落とされた。軽くなった心地がして、クラウドは、気障ったらしい親友の計らいに、心から感謝した。
「伝えたいことが、あったんだ」
 溢れてくる言葉は、極々自然にクラウドの口をついた。どれから言おうか、なにを伝えようか。
 この邂逅は唐突だったから、クラウドの思考は混迷し、迷走しそうになったけれど、ようやく落ち着きを手に入れて、彼は緩やかに話し出す。
「うまくいえるか、わからないんだけど」
 今までは、それを口にすることすら、罪悪だと考えていた。そう思うこともまた、罪悪のように感じていた。
 今なら、言える気がする。迷いあぐねて、否定して押し隠してきた言葉を、伝えられる気がする。
「なぁに?」
 少し離れた場所で、エアリスは変わらず、佇んでいた。急かそうとせずに見つめている彼女の双眸は、あたりを包む碧光に溶けこんでいる。
 クラウドは、掌を握り締めた。臆しそうになる自分を勇気づけるために、彼は指先に力を篭めた。
「俺……」
 ようやく、逢えた。せっかく、逢えたんだ。
 こんなチャンスは、もう二度と無いかもしれない。そう思うと、慎重さがクラウドの声を重くする。
「君と一緒にいた俺は、俺じゃ、なかったけど。でも、俺は…」
 どう言えばいいだろう。どう言えば伝わるだろう。
 言葉は役不足で、クラウドは力不足だった。
 罪科を思うとクラウドの気持ちは重くなり、声を出そうとするのに胸が支えて息苦しさに眉を寄せる。
「俺は、ずっと、エアリスのことが……」
 エアリスは、じっとクラウドを見つめていた。彼がなにを伝えようとしているのか、そうすることでなにが変わってしまうのか、エアリスにはわかっていた。
 彼を苦しめる重圧が、なんであるかを知っていた。自分もまた、同じ苦みに締めつけられていた。
 心を握り潰されそうなほどの痛みに、乾く喉に息を呑む。エアリスは堪らずに、胸元につかえていた言葉を吐き出した。
「──二年前」
 割り入ってきたエアリスに驚いて、クラウドは顔をあげた。知らず知らずの内に、重みに圧されて俯いていたのだと、彼は初めて気がついた。
「七夕の日。短冊には書かなかったけど、願い事があったの」
 握りしめた手を胸に添え、彼女は呟く。細い眉は寄せられて、憂い顔で紡ぐ声は小さくて、クラウドは息苦しい胸を膨らませ、じっとエアリスを見つめていた。
「『クラウドを、好きになれますように』」
 誰にも言ったことの無い、たった一人の秘密だった。それをようやく口にしたエアリスは、締めつけがすっと消えていくのを感じ、安堵して肩を撫で下ろした。
 クラウドは、驚愕してエアリスを凝視していた。それがなんだかおかしくて、エアリスはくすりと小さな笑みを結んだ。
「ティファが、羨ましかった。素直に、願い事に出来るんだもの」
 同じ人を見つめていたから、彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。彼女はいつも、エアリスを羨んでいたけれど、ティファを見つめるエアリスは、彼女の眩さを痛感していた。
 あんなに激しく、あんなに一生懸命に、恋することが出来る彼女を、羨ましいとすら感じていた。
「あなたを好きになれば、変われる気がした」
 クラウドの中に、『あの人』との繋がりを探していた。『あの人』と違うところを見つける度に落胆して、失望した。
 クラウドへの罪悪感と、『あの人』への罪悪感の両方がない交ぜになって、痛み、苦しみ、救われたいと望んでいた。クラウドを好きになれば、クラウドへの後ろめたさを忘れられる。『あの人』でない人を好きになれば、悲しみから逃れられると思っていた。
 浅はかだった自分を思い、エアリスは苦笑した。黙って告白に耳を傾くクラウドを窺って、彼女はゆっくりと首を振る。
「でも、違った」
 考えていたよりも心はもっと複雑で、気持ちはもっと単純だった。古代種の遺跡で混乱する彼を前にしたとき、エアリスは、ようやくそれに気がついた。
「心は、思い通りにならないの。好きになりたいとか、好きになっちゃダメだとか、考えてもダメ」
 仲間を置いて、一人で訪れた忘らるる都。傷つけないよう、巻き込まないよう、独りを選んだというのに、駆けつけてきてくれた仲間を前に、エアリスの胸には喜びが広がった。
 本当は、心細かった。怖くて、寂しくて、不安に潰されそうだった。
 仲間が、来てくれた。クラウドが、そこにいた。
 愛しい人のいる、愛しい世界。胸にある確かな想いを確かめて、エアリスは、す、と細い息を吸い込んだ。
「いつの間にか、思ってたよりも、ずっと自然に…」
 まっすぐ見つめる視線の先に、クラウドがいる。あの時と同じ場所で、あの時と同じ静けさに包まれている。
 溢れる想いは、止めどない。コントロールなんて効かない、理性だって追い付かない。
 ぎゅ、と指を結んで、歌う声に言葉が乗る。
「…自分でもどうしようもないくらい、好きになってる、ものなのね」
 出逢いは唐突で、鮮烈だった。最初から、互いに互いが気になっていた。
 誰かの代わり、ではないし、なにかの言い訳、でもなくて。恐れと懼れを拭い去った最後に、心に残る感情は──。
「エアリス」
 澄んだ声で、クラウドはその名を呼んだ。躊躇いも不安も掻き消えて、爽やかに晴れた心を映したような瞳だった。
「俺は、君のことが──」
 先程途切れた言葉を繋げようとしたクラウドは、今度は自分の意思で、声を絶った。かぶりを振って、深く息を吸い込む姿を、エアリスは見守っていた。
 緊張に息も詰まり、苦しさに押し潰されそうだった。けれど、刀に貫かれる痛みを知っていて、どうしてこの瞬間を恐れるというのだろう。
 期待と興奮に彼女の胸は高鳴って、見つめる碧眼に包まれながら、クラウドは唱えた。
「君が、好きだ」
 昔も、今も、これからも。いつからなんて関係ない。どこが好きとか、どんなに好きかとか、そんなのはどうでもいい。
 溢れてくる、湧いてくる、満ちているこの気持ちを表現するのに、こんな陳腐な言葉しかでてこない。こんなにも、こんなにも、君のことが好きなのに。
「私も」
 誰に言っても、理解してもらえないかもしれない。それでもいい、同じ想いでいてくれる人が、目の前にいるのだから。
 稚拙で、陳腐で、他愛の無い話だ。恋愛とも、敬愛とも、友愛とも言いがたいこの情を、他にどう言い表せるというのだろう。
「あなたが、好き」
 きっと、全てなんだろう。この気持ちは、隣接する感情のカテゴリーのどれにも当てはまらない。
 当てはめれば、そこに染まってしまいそうで、当てはめることができずにいた。無理やりに捻じこんでも、滲んで、はみ出て、溢れでて、心にはいつの間にか、好きだという感情が氾濫していた。
「…逢えてよかった」
 ふわりと笑みを溢し、エアリスは微笑った。
 なにも、変わったところはない。ただそれを口にしたというだけなのに、恥ずかしさや照れ臭さの隙間から、喜びが滲んでくる。
 つられるように、クラウドの頬が僅かに綻び、それを視止めたエアリスは更に笑みを深くする。
「私はこの星にいて、クラウドも、この星にいる」
 わだかまりの消え去った心は軽く、見詰め合う二人の視線は柔らかく交じり合う。
 ライフストリーム、星を巡る、精神エネルギー。いつか還り、そしてまた、生まれていく場所。
 全ては繋がっていて、一人と一人は結ばれている。エアリスも、そして、クラウドも。
「ずっと一緒、だね」
 エアリスが手を差し伸べて、細い指先がクラウドへと伸ばされている。触れたいと願うのは、当然のことだった。心と心が繋がって、同じ温もりに溶け合って、どうして堪えてなどいられるだろう。
「ああ」
 歌うように相槌を打って、クラウドも手を差し伸べた。
 いつかは、繋げることができなかった。繋がりたいと望むことすら、罪深いことに感じていた。
 懐かしい掌に、自分のそれを重ねていく。触れられないはずの指と指が触れ合おうとした瞬間、舞い上がる光の渦が、音を立てて揺らぎ始めた。
「────ッ」
 咄嗟に、クラウドはよろめきを耐えた。迸っていたライフストリームの水柱の勢いが、薄らぎ始めている。
 星合が、終わろうとしている、それはこの夢のような逢遇の、終焉を意味していた。
 繋げようとした指は、結べずにすれ違った。あたりを見回し、ゆっくりと収束していくライフストリームに気持ちは逸る。
 焦燥に眉を顰め、慌しい口調で、エアリスは叫ぶように訴えた。
「あの人も、きっとどこかにいる」
 驚いて、クラウドは眼を瞠いた。誰のことを言っているのか、数瞬の後に理解して、痛切な面持ちの彼女を見つめるクラウドは息を呑んだ。
「探してるんだけど、見つからないの」
 星を蝕む厄災、禍々しい呪縛に愛された存在―。彼は決して、消えることはない。思い出でない存在として、今もまだ、この星のどこかに潜在している。
 優しい碧に包まれていた泉が、元の姿を取り戻す。魔法のような時間が終わる。
 切なく表情を濁らせる彼女から、不安や憂慮など取り去ってしまいたくて、クラウドは微笑んだ。空を掻いた指先が、自分の意思で、喘ぐ彼女の指先をそっと捕らえ、包みこんだ。
「…心配するな」
 実体のない彼女と実体であるクラウドとでは、棲む世界は違ってしまった。繋げる指は、絶望的な二人の違いを痛感させる。
 それでも確かに、互いの温もりを感じていた。それだけで、全てのしがらみから解き放たれたかのように、優しさが溢れ出した。
「俺が、なんとかするよ」
 俺はもう、独りじゃない。共に歩む人がいる、見守ってくれる人がいる。
 心と心が、繋がっている。想いと想いが、結ばれている。
 それを実感したクラウドが、呟く声に迷いは無かった。交わす指先から、気持ちが溶け合っていく。
 繋がりあう指と指とを絡めあって、掌と掌が接吻けた。それは恍惚としたひと時で、焦りや不安が和らいで、心が安らいでいく。
 陶酔に瞳を閉ざした二人に、ぱらぱらと、光が降り注いでいた。
「うん…」
 星合の奇跡を終えて、彼らはあるべき場所に還ろうとしている。エアリスもそれは同じで、幸福に酔い痴れていたいと望む二人に、辛辣な別れは迫りつつあった。
 ゆっくりと瞼を開き、エアリスの微笑が萌える。眩い光を放ちながら、薄れる彼女の声が耳に届く。
「…クラウドの願い、叶うといいね」
 光の雨を降り散らし、反響する声を吸い込んで、ライフストリームが渦を巻く。眩さに瞼を伏せるクラウドを、大きなうねりが飲みこんだ。
 指の隙間に感じていた温もりが、やがて和らぎ、消えていく。ライフストリームの沈んだ泉に、揺らぐ波紋とクラウドが取り残された。
 静寂が舞い降りて、これまでの出来事は、まるで夢のようだった。ちゃぷ、と足許を掠めていく波だけが、なにかが起こった余韻を残している。
 ふ、と息を抜き、クラウドは天を仰いだ。そこには満点の星空が広がっていて、星を騒がせた夏の大三角がきらきらと輝いている。
 青年の足許に願いを繋いだ笹の葉が流れ着き、波に抱かれた葉の合間から、短冊が浮かび上がる。願いを叶えた魔法はその効果を失って、水を吸った紙の上からインクの文字が消えている。
 星と星が出逢う夜、星が星を呼び覚ます。束の間のひと時に、エアリスの囁きが耳に残る。
 幸福で、それがどうにも切なくて、クラウドは天を見上げたまま、暫くその場に佇んでいた。


   ☆   ☆   ☆


 フェンリルは、待ちくたびれた様子だった。ようやく泉から上がったクラウドを出迎えて、それは静かに横たわっていた。
 そっと手を伸べると、冷たい質感が伝わってきた。夏だというのに、すっかり夜闇に冷やされてしまっている。
 この日、この神秘的な空間に起こった魔法のような出来事を、相棒は静かに見守っていてくれた。なだらかな背中を慰めながら、クラウドは緩く息を抜いた。
 いつの間にか、夜もすっかり更けてしまった。星空は変わらない煌きで広大に広がっているけれど、エッジの我が家に帰る頃には、明るみが差し始めることだろう。
 残してきた家族は、心配しているかもしれない。ハンドルバーを押し上げて、クラウドはフェンリルを連れ出した。
 行く先を定め、黒塗りの体躯に跨って、腰の位置を確かめる。帰る前にもう一度、クラウドは肩越しに静かな泉を見返した。
 願いを届けた笹の葉は、そこに残したままにした。確かに届けたのだという証を刻んでおくために。
 先刻までの不思議な出来事を忘れ、辺りは静けさに包まれている。彼女の気配は消えてしまっても、心を奮わせた感動は、未だクラウドの中に燻っていた。
 願いが叶うといい、だなんて、なんとも彼女らしい願い事だ。誰かが願った彼女の奇跡を、また人のために使うというのか。
 星が星に出逢う夜にも、『彼』は現れなかった。エアリスの言うとおり、『彼』は星になれぬまま、どこかに身を潜めているのだろうか。
 世界の理から外れ、星になれずにいる『彼』を想うと、痛切さがクラウドの胸を劈いた。それはどれほどの孤独で、どれほどの狂気に侵されていることだろう。
 星の循環から外れた人を、救う手立てはあるのだろうか。異物として忌み嫌われた人を、解放することなどできるだろうか。
 クラウドはかつて、そう願うことすら懼れていた。それは甚大な裏切りで、由々しき背徳であると考えていた。
「…大丈夫」
 誰へと告げるでもなく、湧いた言葉が口唇を滑る。フェンリルを支える四本の指が、きゅ、と小さな悲鳴を上げる。
「その時は、俺が──」
 あいつを倒せるのは、俺だけだ。星を、あいつを──セフィロスを蝕んでいる、忌まわしい呪縛を断ち切ることができるのは……。
 もう、宿命から逃れない。許してくれる人が、支えてくれるひとが、望んでくれる人がいるのだから。
 ゴーグルを鼻に乗せ、その位置を確かめる。唸り、いななくフェンリルの背に乗って、クラウドは走り出した。
 星合の夜、逢いたかった人に出逢えたように、逢えなかった人に、いつか逢う日も来るだろう。叶わぬ願いを叶えるために駆け抜ける青年を、満点の星空が優しく、静かに、送り出していた。