星逢い<03>

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【 HOPE:TIFA 】


 クラウドが帰宅したのは、日付も変わろうかという、深夜のことだった。
 外の蒸し暑さに比べ、店の中は涼しくて心地が好い。平日だからか、もはや客の姿はなく、カウンターテーブルに使用済みのグラスがいくつか集められているのみだった。
 クラウドは静かに、店の奥へと歩みを進めていった。
 表には『CLOSE』の看板がかかっていたから、もうみんな眠ってしまったのかもしれない。片付けが済んでいないようだから、店主である幼馴染は、子供たちを寝かしつけて戻ってくるつもりなのだろう。
 それを待とうと、カウンターへと近づいたクラウドは、珍しいものをみつけた。線が細く、しなやかな葉を蓄えた植物が、カウンターに寝そべっている。それは、色とりどりの折り紙で鮮やかに装飾されていた。
 ふと、懐かしい思い出が過った。二年前、仲間たちが飾った笹の葉も、ちょうどこんな具合に飾られていた。
 クラウドは瞳を細め、暫くの間、黙ってそれを見つめていた。やがて、彼は背の高いスツールに腰掛けて、そ、と伸ばした指先で、横たわる笹の葉を労った。
「クラウド。お帰りなさい」
 階段から降りてきたティファは、手摺を掴んだまま声をかける。彼女の腕には、桃色のリボンが結ばれている。それと同色のリボンが、星痕の消えたクラウドの左腕にも結ばれていた。
「…二人は?」
「もう寝たわ」
 遅く帰宅したクラウドを、ティファは責めなかった。家族と顔を合わせぬようにわざと遅くしていたのか、本当に仕事が忙しいのか、彼女はきちんと判別することができていた。
「それね、ユフィが持ってきたの」
 星痕が消えて、世界は喜びに包まれた。懐かしかった仲間たちが二年ぶり集結し、騒動が一段落してからというもの、彼女の話題は二人の間で、度々持ち上がるようになった。
「最近、よく来るんだな」
「リーブのところで、色々手伝っているみたい」
 快活なあの少女は相変わらず忙しなく、騒々しく動いていて、エッジを訪れる度に店に立ち寄ってくれる。その時々によって様々な土産を持参する彼女は、この日、夏の風と共に、ウータイに茂る笹の葉を運んできてくれたのだ。
 ティファはカウンターに入り、帰宅したクラウドの為に酒を作り始めた。クラウドは、彼女の細い指が器用に、綺麗に働くのを見つめていた。
 平和な世界、二人だけの時間を過ごす彼らは、柔らかな平穏が包み込むのを感じていた。
「マリンたちと作ったの。明日は、七夕だから」
 ティファは笑って、作ったグラスを差し出した。クラウドはそれを受け取って、一口目で喉を潤した。
 既に、幾枚かの紙切れが結ばれている。それが、願い事を書くための短冊なのだと、クラウドは知っていた。
「飾るのか?」
「うん。お客さんにも、書いてもらおうと思って」
 クラウドの指は伸びて、一枚の短冊を表に返す。そこには、拙い字でデンゼルの願い事が記されていた。
『クラウドみたいに、強くなれますように』
 恥ずかしいような、照れ臭いような、難しい気持ちになって、クラウドは顔を渋くした。それを見つめていたティファは、小さな笑みを口隅に飾った。
 彼女はグラスを洗い、柔らかなタオルでそれを磨き始めた。デンゼルの隣に並ぶ短冊には、マリンの願い事が認められていた。
『ティファみたいに、綺麗になれますように』
 それを読んだクラウドの顔は、くすぐったくなった。慣れない笑みが滲み出すような気がして、彼はそれを隠すように、酒で喉を潤した。
「…ティファは?」
 おもむろに、クラウドは尋ねた。見てもいいのか、承諾を得るために。
 ティファは手を止めて、少し躊躇う風を見せた。眉を寄せ、睫毛を伏せて、照れたように控えめに、指を伸ばす。
 彼女のめくった短冊には、『商売繁盛』と、簡潔な四文字が綴られていた。
「…ふ…」
 クラウドは吐息を漏らし、グラスを掴む手でそれを受け止めた。ありきたりで、つまらないとも言える即物的な文言は、似合いのようで不似合いのようで、小さな息が掌にこもる。
 それが笑みだと悟られぬように隠そうとはしたけれど、長い付き合いの彼女には、わざとらしい隠蔽など無意味なだけだった。
「失礼ね」
 ティファは不満げに頬を膨らませたけれど、それはただの冗談だ。彼女はすぐに、先ほど彼女の口唇を飾ったものと同じ笑みを浮かばせた。
 三枚の短冊を並べ、彼女はそれを見比べながら、す、と指先で字面を撫でる。上げた視線の先にクラウドを確かめて、安堵と穏やかな喜びとで、彼女の心は満たされていった。
「願い事なんて、もう、なにもないと思ってた」
 不意の呟きに、クラウドは眉を上げた。
 クラウドの喉を濡らした酒が、グラスの中で波打っている。それをそっとカウンターに置くと、沈黙が、彼女から続く言葉を引き出した。
「なのにまだ、いっぱいあるの。一つに絞れないくらい」
 そう呟く彼女は少し寂しそうで、クラウドは柳眉を寄せる。けれど、グラスを磨くティファの口許に微笑が刻まれていたから、クラウドは不安に駆られずに済んだ。
「……二年前」
 唐突に、クラウドが口を開いたから、ティファは手を止めて、呟く彼を凝視した。パチパチと瞬いた瞳の先で、彼は握るグラスを愛でて、そっとティファへと視線を返す。
「…あの短冊。なんて書いてあったんだ?」
 あの夜、曇り空の下、湿った風に揺らされて空気を泳いだ笹の葉には、確かに彼女の願いも括られていた。あの時は互いに強がって、教えなかったし、知りたがらなかった。
 クラウドの不意の呟きに、ティファは顔を背けた。薄く頬を染まらせて、初々しい反応でいる彼女は、なかなか言い出そうとしない。
 それでもよかった。知らないままでも支障があるわけではないし、今の平穏を崩すくらいなら、自分の些細な興味など呑み込んでしまうことができた。
「なんでもない」
 無粋さを恥じて、クラウドはキツい酒で喉を潤す。静かな夜、二人だけの夜の時間は緩やかで、舌を焼いたクラウドの耳に、ティファの小さな呟きが届いた。
「……『クラウドが、私を好きになってくれますように』」
 グラスの中で揺れる酒を見つめていたクラウドの視線がティファを見つけた。首を傾げ、作業を忘れた彼女の手は止まったまま、榛色の瞳は伏せられて、掌に包みこむグラスの煌めきを見つめていた。
「……笑ってよ」
 先ほどは極々自然に零れた笑みだったのに、驚くクラウドの顔は強張ったままだ。クラウドは不器用な人間で、自在に表情を移り変えるなど、高等な技能は持ち合わせてはいなかった。
 なんと、拙かったのだろう。たった二年前のことなのに、振り返って思い出すと、あの時とは違う恥じらいがティファの心を締め付けた。
 再び、ティファの細い指がグラスを磨き始めた。空気を和めようと、彼女なりの些細な試みだった。
 二年越しの告白に、今更応えるのもおかしい気はする。けれど、それを知った今、無視しているのもばつが悪い。
「俺は、昔から…ティファのことが好きだったよ」
「…そういうのじゃないの」
 勇気を出して振り絞った言葉だったのに、容易く否定されてしまった。眉を寄せ、難しそうに顔を顰めるクラウドに、ティファは笑って首を振る。
「あの頃、私、あなたに恋してたの」
 クラウドとティファは、同じ村で生まれ、育った。寂れた田舎だったけれど、慎ましく、平和で、平穏な日々だった。
 強くなると約束して故郷を去った少年は、精悍な青年になって、ティファの前に再び姿を現した。屈強で、逞しく、頼りになる彼なのに、どこかぎこちないその存在が、ティファの心を埋め尽くした。
 クラウドを気にして見つめるうちに、彼のことを好きになった。渦巻く不安を拭うように、微かな矛盾を振り切るように、ティファは、熱く、激しく、クラウドに恋をした。
「クラウド、全然気づいてくれないんだもの。気にしても、くれないんだもの」
 拗ねたように、ティファは言った。見つめる先で、クラウドは渋い顔をして、言い訳を探した口唇は、小さな謝罪を呟いた。
「……ごめん」
 『クラウド』であった時のことは、今でも覚えている。『クラウド』を演じる過程で、どれだけ彼女を傷つけただろう。
 贖う言葉を探して、クラウドは拙い言葉を呟いた。そんなクラウドを前にして、ティファは小さな笑みを零す。
 それは確かに、あの『クラウド』とは違っていた。けれど、これがまさしく、『クラウド』なのだ。
 クラウドに恋した切なさと、クラウドにこみ上げる愛しさと、その両方が胸を擽って、ティファはふわりと、微笑んだ。
「あの時はね、…クラウドが私を好きになってくれれば、救われる気がしてた」
 強くて、気取っていて、謎めいた、知った人。彼のことばかりを考えてしまうのに、その彼は、すぐにでも消えてしまいそうな危うさを秘めていた。
 彼を、繋いでいたかった。彼を、失いたくなかった。
 辛さと切なさを恋のせいにして、苦しみと悲しみをクラウドのせいにして、呆れるほど我が儘に、救われたいと望んでいた。
「あんなに好きだったのに、クラウドの気持ちも考えないで、自分の願いさえ、叶えばいいって思ってた」
 好きだったから、好きになってしまったから、好きになって欲しかった。報われないのは寂しくて、辛くて、悲しくて、苦しくて。
 魔法のような奇跡を望んで、叶わぬ願いを、星に託した。クラウドが、私を、好きになってくれますように──。
「でも、エアリスが……」
 最後のグラスを並べ終え、ティファは小さく、息をつく。彼女の切なさが、苦しさが伝わってきて、クラウドは苦い気持ちでそこにいた。
 『彼女』の話題は、二人の胸に独特の感動を産み付ける。寂寥、哀愁、そして、溢れるほどの愛惜だ。
 優しくて、朗らかで、一緒にいて心地よい彼女の存在。エアリスは、いつもみんなを元気づけて、勇気づけてくれた。
 純粋で、純真で、可憐な彼女が羨ましくて、妬ましくて…。彼女のことを、恨めしく思ったことがないわけではない。けれどエアリスは、ティファのそんな刺々しさすら、和らげてくれていた。
 用を終えたタオルを握り締めるティファの指が、震えていた。長い沈黙を保ったまま、クラウドはそれを見つめていて、ゆっくりと溢し落とすティファの言葉に耳を傾けていた。
「エアリスが、教えてくれた。人を愛するって、どういうことか」
 みんなの願いが、叶いますように―。自分のためでなく、誰かを変えようとするのでなく、誰かのためにと願えた彼女を、恨めしく思うなどできるわけがない。
 きっと彼女は、思い悩んでいたティファの、他愛も無く拙い気持ちすら汲んで、その成就を願ってくれていたのだから。
 恋よ叶えと望んだティファと、愛する人へと願ったエアリス。勝ち目なんてない、敵うわけがない。そんな、悔しさも悲しさも薄れるくらい、彼女のことが大好きだった。
「…欲張り、だよね」
 小さな笑みが、強張ったティファの頬を緩ませた。タオルを掴み、カウンターの上に肘を乗せて、肩を狭めた彼女の長い髪が、肩から胸へと滑り落ちる。
「もう、知ってるのに。願い事はって考えたら、まだ、いっぱいあるの」
 商売繁盛、健康長寿。願う願いに、限りは無い。
 不安はようやく消え去って、残された世界で、救われた世界で、それでもまだ飽き足らず、瑣末な願いが溢れている。
 ミッドガルを灰色の雲が覆い隠したあの日、降り注いだ祝福の雨は、星痕を消し去った。彼女は変わらずこの星を愛していて、クラウドを愛していて、ずっと、見守ってくれていた。
 大きくて、広くて、温かい彼女の存在をリボンを結んだ左腕に感じながら、そうなれない自分に、少しの憂いがティファの表情を曇らせる。掴んだタオルを弄くるティファの指先に、なにか、温かなものが触れた。
「──いいんだ、ティファは、そのままで」
 グラスを握っていたクラウドの両手が、時に逞しく、時に優しいティファの指を、ゆったりと包み込んでいく。伝わる温もりにはっとして、顔を上げたティファの眼に、細まった魔洸色が煌いていた。
「それが…、普通に生きるって、ことだから」
 拳を握って、グラスを磨いて。繊細な彼女の指に触れた手に、手を重ね、握り締める。
 温もりが伝わって、温もりを伝えて、ティファの左腕に結んだクラウドの左腕に、同じ色のリボンが揺れていた。
「ずっと、見ていてくれただろ。一緒に、探してくれただろ」
 ミッドガルで蹲っていたクラウドを見つけたのは、ティファだった。彼女が、クラウドを『クラウド』にしてくれた。
 ライフストリームに散らばってしまったクラウドを探しあてたのも、ティファだった。彼女はいつだって隣にいて、一緒にいて、厳しく追い立てて、手を取り付き添ってくれていた。
「俺はもう、大丈夫だから。ティファも、自分のことを願ったっていい」
 苦しみ、悩み、傷ついて、悩ましいほどに恋をした。そんな痛みも忘れるほど、愛してくれたと知っている。
 ずるずる、ずるずる、引きずってきたものを脱ぎ捨てることはできないけれど、繋がる手のぬくもりは、クラウドを支えてくれる。見守ってくれるエアリスがいるだけでなく、連れ添っていく人がいる。
 その人の手を確かめて、その人と手を繋いで、クラウドは拙く、言葉を紡いだ。
「…いっぱい、あるよ」
 掴んだタオルを離して、伸ばした親指を重なってくる彼の親指に寄り添わす。指脇のくすぐったさに目を細め、クラウドは仄かな息を洩らす。
 いつの間にか、切なくはりつめた空気が緩んだのを、二人は互いに感じていた。
「俺が、叶えるよ」
 クラウドにしては、強気な発言だった。まるで、あの頃のようだ。強く、逞しく、カッコつけで、つれなくて。
 なんだか照れくさくなって、二人は同じように、息を詰めた。
 ティファが驚いて、喜んで、はにかんで、疑って、少しの間躊躇って、やがて柔らかに笑みの綻ぶまでを、クラウドは見届けた。ふわりと可憐な微笑を浮かべ、ティファは意地悪に問いかける。
「本当に?」
 ティファの親指が寝そべって、クラウドの肌を擦る。くすぐったい痺れを受け止め、同じ優しさで指を添えると、クラウドは小さな声で呟いた。
「…できるだけ」
 この星を蝕む厄災も、今は鳴りを潜めている。いつかまたまみえることがあるとしても、怯えて過ごす必要などない。
 瞬くティファの、睫毛の音まで届く距離。酒の味の残る喉に、息を呑む音すら響く。
 からだの内側から引っかかれたような心地で、ティファは可憐な笑みを溢した。それにつられるように、クラウドの頬がぎこちなく引き攣った。
 これまでに描いていたどんな幸せよりも、ときめきよりも、この瞬間は幸福だった。それを手にして、他になにを望もうか。
 こんなにも、満たされている。些細な不足なんて、気にもならない。これほどの満足を、彼女も感じていたのだろうか。
「じゃあ、さっそくお願いしようかな」
 ねぇ、エアリス。
 ありがとう。
 ずっと、見ててくれたよね。励まして、慰めて、いたわってくれていた。
 自分のことで精一杯で、クラウドに一生懸命で。エアリスはいつだって、そんな私を支えてくれた。
「クラウド、お願い」
 星と星が出逢う夜、奇跡が起こるというのなら。星になったあなたに、この想いを届けて欲しい。
 あなたが願ったように、私も願う。
 みんなの願いが、叶いますように。あなたの願いが、叶いますように。