スラムに咲く花

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 その教会は、特別な空気に包まれていた。
 いつからそこにあって、いつの間に忘れられかのかはわからない。スラムの片隅にひっそりと佇んで、上の世界の喧騒も知らず、静けさに守られている。崩れた屋根の隙間から、プレートの合間をくぐった陽の光が柔らかく注ぎ込み、床板が外れて剥き出しの地面からは、しなやかに生えた花たちが咲き誇っていた。
 ここを訪れるのは、いつもの日課だった。とはいっても、ツォンに信心は皆無だった。
 ツォンが毎日のように寂れた教会を訪れるのは、おとぎ話の神の子を奉るためではない。彼は、教会に広がる小さな花園の守り人に用があった。
「…またなの?」
 呆れたように、少女は尋ねた。スラム育ちの彼女の服装は質素で、所々に誂えた花の装飾が清楚さを引き立てる。
「エアリス。神羅カンパニーは、君の協力…」
「協力しません」
 青年の言葉に被せるように、彼女は言った。度々ここを訪れるこの男とは、すっかり顔馴染みになってしまった。
 随分前に破り捨てた名刺には、神羅カンパニー総務部調査課と肩書きが記されていた。黒スーツを身に纏う彼らは、タークスと呼ばれている。
 ポーカーフェイスを困惑に歪めるタークスの名は、ツォン。課せられた任務をこなすため、彼はそこに立っていた。
「心変わりはしてくれない、か」
「もう、諦めたら?」
「それはできない」
 初めて二人が会ったのは、いつのことだったろう。スラムの小さな家で、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「どうして?」
 振り返り、尋ねる少女の長い髪が、ピンクのリボンで結ばれている。
「……これは仕事だ」
 科学部門からは、逃げ出した古代種の捜索の要請があった。見つけ出した少女は、当然ながら非協力的だった。
 その後、ツォンに新たな命令が下された。古代種を監視すること。それが、彼の仕事だった。
「呆れた人」
 当初、エアリスはツォンを警戒して、視線を交わそうともしなかった。月日が経つにつれて、こうして会話を交わすようにはなった。
 ツォンはエアリスを暴力的に連れ去ったりはしなかったし、知り合いの少ないエアリスにとって、彼は数少ない話し相手だった。それがエアリスにとって、気分のいいものかどうかは別として。
「部屋も服も、君のために特別に用意してある。決して、悪いようにはしない」
「何度来ても、ダメなものはダメ」
「何故」
 花の世話をするエアリスの、手が止まった。咲ききった花弁が彼女の指を撫ぜ、細やかに擽ってくる。苦く縮まった胸は、少しだけ柔らかくなった。エアリスは小さく笑みを溢し、立ち上がった。
「だって、私、古代種じゃない」
 細い眉を残念そうに寄せて、向けられた微苦笑に、ツォンの心は軋んだ。
 彼女は、なにを憂えているのだろう。見当違いな依頼を続ける愚かな男を哀れんでいるのだろうか。それとも、自分が『特別』であると知っていて、嘘をつく罪悪感に揉まれているのか。
「座ったら?」
 意外な言葉に、ツォンは眉を顰めた。
 広い教会には長椅子が並べられているが、どれも埃を被ってしまっている。追い出されるのはいつものことだが、引き止められるのは珍しい。
 エアリスは少し悩んで、はにかむように付け足した。
「仕事、忙しいんでしょ?」
 エアリスの日常は、単調だ。朝起きて、母親と分担した洗濯と掃除を終えると、ランチタイムが訪れる。その後は自由時間で、読書したり、スラムを散歩したり、色々だ。
 最近は、この教会を訪れることが多くなった。それは、いつか降ってきた空色の眼の青年に、会えるかもしれないと思うから。
「タークスって、暇人だと思ってた」
「どうして?」
「こんなところ来てるのに、暇じゃないの?」
 彼女の言い分はもっともだった。
 戦争が終わり、ジェネシスの出奔を発端とした一連の騒動も終結した。しかし、タークスに課せられる任務は増える一方だ。
 事態が落ち着いたからこそ、忙しくなったのだとも言える。タークスは神羅のために暗躍する特殊部隊で、『後片付け』は彼らのメインワークだったからだ。
「君が協力してくれれば、厄介な仕事が一つ片付くんだが」
 長椅子の一つに腰を下ろし、指を組ませた男が言う。
「おあいにくさま」
 柔らかな頬を膨らませ、エアリスは言った。
 歩くエアリスの足元で、ワンピースの裾が踊る。膝をくるりと抱き込んで、長い前髪を耳にかける。
 そんな後ろ姿を見守るのが、いつしか安らぎになっていた。気を抜いて、背凭れに体重を乗せたツォンに、エアリスは問い掛けた。
「ね。ソルジャーって、知ってる?」
 胸を抉られるような痛みに、ツォンは息を詰めた。
 どんな顔でそれを問うのか、ツォンからは見えなかった。だからこそ返答に迷い、ツォンは慎重に問い返した。
「どうして?」
 どんな顔で問い返すのか、エアリスからは見えなかった。それを見るのは恥ずかしくて、少しだけ、恐ろしかった。
『ソルジャー』について、エアリスは詳しくなかった。幼い頃から彼女を追い立ててきた神羅を毛嫌いしていたから、神羅にまつわる者に好意的な印象など皆無だったし、語られるソルジャーの功績は恐ろしさを助長するだけだった。
『彼』の瞳に見える空色は、恐ろしくはなかった。予想を裏切られたから、興味が湧いた。
 神羅の事業について知りたいのは、『彼』に興味があるからだ。他意など無いと示すため、雑談の形をとりながら、彼女は続けた。
「有名だから」
 彼女の言う『ソルジャー』が誰のことを言っているのか、ツォンにはわかっていた。
『彼』はモデオヘイムから帰還後にカームに駆り出され、今はミッドガルで規則正しい生活を送っている。第二のジェネシスを恐れ、上はクラス1stを監視する密命を下した。
 日々の雑務に縛られて、タークスの監視下で神羅ビルで飼い殺されている。この間、エアリスと『彼』との接触は無い。
「…ソルジャーには、クラスがある」
 エアリスが秘密にしようとするのなら、無粋な真似は出来ない。彼女の機嫌を損ねれば仕事に差支えがある、だけでなく、ツォンの唯一の安らぎの時間も壊れてしまうからだった。
「魔晄を浴びた者、ソルジャー。クラスは3rdから1stまである。数字が若くなるほどランクは上で、ミッションの難易度も高い」
「強いの?」
「凄まじく、強い」
 タークスだから、時にはソルジャーと任務を共にする。タークスも戦闘の心得はあったが、彼らの強さは桁違いだ。
「忙しいの?」
 彼女が誰のことを聞きたがっているのか、ツォンにはわかっていた。しかし、それを尋ねた彼女は、ツォンの胸を締め付ける痛みには気づかない。
 なんと、憎らしい娘だろう。恨めしくすらあった。
 けれど、遠慮がちに頼るのに、そんな弱味を見せないようにと細い身を震わせる少女を、詰ることなどできやしない。
「個体差はあるが、1stともなれば、それなりに多忙だろうな」
「ふぅん」
 暫く、沈黙がこの空間を支配した。そのまま話題が完結するのを、ツォンは望んでいた。
 彼女の機嫌を損ねることはできないけれど、彼について語りたくない理由はいくつもあった。重たい沈黙に、公私を分けたがるツォンの思考は遮られ、苛立ちとなって燻り始めた。
「1stって、何人いるの?」
「誰のことが知りたいんだ?」
 雑談は終わって、ツォンの一言が核心を突く。会話はプツリと切れてしまって、エアリスは花を世話する手を止めた。
「ソルジャーの個人情報は重要機密だ。教えられない」
 驚いて息を詰まらせ、次いで漏らした小さなため息に空気は揺れて、同じ空間にいるツォンにもそれは伝わった。
 拙くはあるが、懸命に伸ばそうとした彼女の手を、ツォンは振り払った。胸を締め付けられる苦しみは、痛みとなってツォンを悩ませる。眉を顰める彼に、この場に不似合いな小さな笑みの波が触れた。
「やっぱり、知ってたんだ」
『彼』の名は、ザックス。最近クラス1stになったばかりで、主要なメンバーを欠いたソルジャー部門の新たな中核になりつつある。
 二人が知り合いであることを、ツォンは知っていた。知っているということを、知られてはならなかった。
 監視任務においてはあるまじき失態を冒し、ツォンの眉は険しくなる。それでも、どこか安堵していた。
 花に包まれて佇む少女に、駆け引きなど似合わない。会話に染みていた薄もやは晴れ、彼女の緊張は綻んだ。失態を嘆く思いをため息にのせて吐き出すと、寂しげに映る彼女を労うため、声をかけた。
「心配しなくても、落ち着いたら、また来るようになるさ」
「来なくてもいい」
 エアリスは指を伸ばし、咲いていた花を摘み取った。予想外の答えに、ツォンの黒い瞳が大きくなった。応えられずにいるツォンを置き去りに、エアリスは続けて言った。
「忘れられてたって、いいの」
 都会の裏側で狭く息をする少女の存在に、誰も気づかない。目が届く範囲の世界しか、彼女は知らない。
「待ってるわけじゃ、ないから」
 いつ来るとも知れない相手を待つなんて、馬鹿げてる。それでも毎日のように教会へ出掛けていく娘に、母は言った。
 相手はソルジャーなんだろ?戦いに行く男を待っていても、傷つくだけだ。心配して、不安になって、すりきれてしまう。
 彼女もそうだったのだろう、と、エアリスは思った。
「ソルジャーって、仕事、大変なんでしょ?
 それに、あの人の居場所、きっとここじゃない」
 空の広さを知る彼からみれば、ここはつまらないところだろう。娯楽もなく、息苦しくて、面白味もない平凡な娘が息をしているだけだ。
「気が向いたら、立ち寄ってくれるくらいでいいの。」
 彼といる時間は楽しくて、目まぐるしくて、だから期待してしまう。いつ来るのかと期待して、待ちくたびれて、来ない人を恨むことはしたくない。
 そう考えているのに、心はうまく制御できない。彼について話す今も、切ない想いがエアリスの胸を劈いた。
「あいつは」
 唐突にツォンが口火を切ったから、エアリスは驚いた。摘み取って膝の上に乗せた花が転がって、振り返るエアリスの耳脇で前髪がふわりと踊った。
「面倒見はいいが、要領が悪い」
 いきなりなにを言い出すのかと、エアリスは目を瞬かせた。
 椅子に凭れた背を浮かせ、組んだ指に顎を乗せる。細い嘆息を放ち、眉をしかめたまま、彼は続けた。
「いろんなことに首を突っ込んで、他のソルジャーの任務まで押し付けられている」
 そう言えば、初めてスラムであった日も、彼は初対面の少年を気さくに構ってやっていた。その後はことあるごとに、ことがなくても、彼はスラムにやってきた。
 気軽に関わってこようとするけれど、そんな彼は決して軽薄ではないのだと、エアリスには分かっていた。そんな彼が、どう過ごしているのかは想像に容易くて、エアリスの口許にふわりとした笑みが萌えた。
「ザックスらしいね」
「ほうっておけないんだろう」
 モデオヘイムから戻ってきて以降、彼が誰と交遊し、どんな日々を過ごしているのかを、ツォンは知っていた。後輩ソルジャーたちの指導に追われ、なかでも、モデオヘイムで出逢った一人の少年兵と親交を深めている。そのことは、エアリスには言わないほうがいいのだろう。
 視線を起こすと、彼女の口許を飾る柔らかな微笑を見つけ、ツォンは安堵して、自らも、ふ、と息を抜いた。
「どんなつまらないものでも、あいつが途中でそれを投げ出すのを、俺は見たことがない」
 世界にたった一人だけの、古代種の血を引く少女。その特徴を抜きにしても、彼女はつまらなくなどない特別な存在だったけれど、それを言葉には出来なかった。
「必ず来る相手を待つのは、苦にならないだろう?」
 ツォンはタークスで、エアリスはターゲットだった。
 タークスの来る前と去った後とでは、どんな変化も起こしてはならない。静かに、着実に目的を完遂し、任務の成功という結果だけを持ち帰る。
「そうかな」
 エアリスは、苦笑した。
 思い悩むのが怖くて、期待しない道を選んだ。それでも期待したくて、煩悶する心を花の香りが安らげてくれていた。
 無愛想で、生真面目で、融通の利かない人。彼が珍しく長く話して聞かせた言葉は、きっと慰めと励ましで、エアリスはそれに少しだけ感謝して、小さく笑みを綻ばせた。
「そう、かもね」
 ツォンの計らいが嬉しかったから、たとえ違った結果になろうと、信じてみようと思えた。独りで抱きかかえるには苦しく辛い感情も、彼のお陰で少しだけ、楽になれたかもしれない。
 立ち上がり、歩み寄るエアリスの歩調は軽やかで、ツォンは安堵した。状況の改善は見られなくとも、彼女の痛みが少しでも和らいだなら、満足だ。
 いつもの自分とは不似合いな言動に出たツォンは、それを誤魔化そうと、珍しい冗句を口にした。
「俺の待ち人は、迎えに来ないと来てもくれない」
 ため息混じりに吐き出して、ちら、と窺う視線の先で、少女は冗談めかして応える。
「迎えに来ても、行かないかもよ」
「迎えに来ないと、わからないだろう」
 床板はギシリと軋み、少女の体重を受け止めた。歩み寄ってきた彼女と視線を合わせるために、ツォンはおもむろに立ち上がった。
「…辛く、ないの?」
 どうして、そんなことを言うのだろう。ツォンの胸は、ちくりと痛んだ。
 辛い、辛いと喚いたとしても、彼女は折れてくれないだろう。その頑固さはきっと生来の性格なのだろうし、彼女を脅かす男の為に、自らすすんで苦渋を飲んでくれるとは到底思えない。
 そんな男を憐れんでくれる優しさに、痛む心は和らいだ。そんな顔をしないでくれ、と、望みたくなるほどに。
――仕事、だからな」
 気にするな、と、言われているようだった。顎を持ち上げ、見上げるエアリスを見下ろす顔に曇りも迷いもなかったから、同情なんて不要だった。
「大変ね」
 嫌味の意味も、あったのかもしれない。可愛げの無い台詞だったけれど、そっと伸ばした彼女の指が、ジャケットに触れた感触は柔らかだったから、ツォンの胸にははっとしたときめきが広がって、先刻までそこにあった痛みなど忘れてしまった。
「はい」
 せめてもの労いに、摘み取った花を挿す。濃紺のスーツに黄色い花びらはよく映える。
 驚いたように瞬きをする姿は珍しく、エアリスはくすくすと笑みを溢す。襟を正し、彼女の指が離れると、胸を飾る花を確かめながら、ツォンは尋ねた。
「これは?」
「機密事項、教えてくれたお礼」
 柔らかく、豊かに咲いた花びらが、ツォンの指を擽った。ビロードの感触にも似たそれは、鮮やかな芳香を奏でていた。
 貸し借りは清算されて、来る前と来た後とでは、二人の関係にはなんの変化もない。彼の申し出に応えられないエアリスは、そうすることでしか彼を慰めることはできなかった。
 憐れんで慰めてはくれるのに、応えては貰えないのだ、と、小さな絶望がツォンの胸を焼く。しかしそうされることで、彼は次も、ここに来る理由を得た。
「また来る」
 頬は攣って微笑を刻もうと動いたが、ツォンはそれを噛み殺した。ただ小さなため息が、音も無くこぼれただけだ。
「何度来ても同じよ」
「それでも」
 エアリスの言葉を遮って、ツォンは言った。
「また来る」
 胸に花を挿したまま、男は踵を返した。カツコツと、踵を鳴らして歩く背中を見送りながら、エアリスは小さな笑みを漏らした。
 どんなに邪険に振舞ったところで、諦めてはもらえないらしい。彼にとってはそれが仕事なのだから、仕方が無い。
「おかしな人」
 呆れたように呟いて、エアリスは摘み取った花を握りなおした。家に帰ったら、これを花瓶に生けてあげよう。そして、それが萎れてしまう前に、またここを訪れよう。
 いつか、彼がふらりと立ち寄った時に、迎え入れてあげられるように。忙しなく、忙しい相手なら、待ち構えているくらいでちょうどいい。
 待つ間の不安と、期待しすぎた心の火傷は、思いもよらぬ相手に癒された。いつもよりも少し軽い足取りで、少女はその場を後にした。
 都会の裏側、忘れられた教会に、今日も花が咲き誇る。しっかりと根を張り、しなやかに葉をのばし、優しく咲く花の香が、穏やかに広がっていた。

【 END 】