犬と飼い主

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 通話を切ると、シンプルな待受画面の中央に白文字で時刻が表示された。手早い動作で画面を閉じると、ツォンはスーツのポケットに用を終えたモバイルを仕舞いこんだ。
 スキッフの手配は済んだ。後は、目的地へと飛び立つだけ。
 時間がない。なるべく早く動きたかったが、今日はもう夜も遅い。
 言いつけ通り用意したコーヒーを運ぶのが、今日最後の仕事になるだろう。湯気の立つカップを手に、ツォンは部屋の奥へと向かって歩き出した。
 暴漢に拉致され監禁されていたルーファウスは、見つけ出された時、星痕に冒されていた。患部は広く、不定期に訪れる発作は彼の意識を脅かすほどの苦痛に満ちたものらしい。
 二度と失態を繰り返さぬよう、また、突然の発作にも迅速に対応するため、四人のタークスの内必ず一人がルーファウスに付き添うようになった。ルーファウスはそれを嫌がったけれど、その処遇の必要性は理解していて、せめて隣室で待機することを最大の譲歩とした。
 三度ドアをノックして、返事を待たずに中に入る。呼びつけたのは相手の方だったから、ツォンは躊躇わなかった。
 暗い部屋で、白い布を被ったまま、ルーファウスは窓辺にウィールチェアを寄せ、外の景色を眺めていた。射しこんでくる月明かりだけを頼りに、ツォンは主の元へと歩いて行った。
「眠れなくなりますよ」
 カップの取っ手をルーファウスに向け、ツォンはそれを差し出した。飼い犬の嫌味に特段言い返しもせず、右手を伸ばしてルーファウスはそれを受け取った。
「準備は整いました。明朝、ポイント・ゼロへ向かいます」
 今回のミッションは、北の大空洞に赴いてジェノバの痕跡を見つけることだ。かつてウエポンを吐き出した大空洞は、ホーリーの発動後ずっと忘れ去られてきた。メテオ戦役の遺産があるとするならば、あそこ以外には考えられない。
 ツォンの報告は聞こえてはいるのだろうが、ルーファウスはなにも応えなかった。彼がカップに口をつけるのを見下ろしながら、ツォンは、ふ、と静かに息を吐いた。
 社員は散り散りばらばらになって、社長の元に集うのは四人のタークスだけになった。そしてその四人は、確かに未だに神羅カンパニーの社員ではあったけれど、なによりもルーファウスその人に忠誠を誓っていた。
 ルーファウスがまだ副社長であった頃、彼は神羅ビルの一室に監禁され、タークスに監視されていた。そんな彼に似たような生活をさせることに罪悪感はあったから、ツォンはこれまで以上にルーファウスの我儘を許すようになっていた。もっとも、ルーファウスが以前のような傲慢さを見せることは少なくはなっていたけれど。
「今夜はもう、お休みください。ここにいては冷えますよ」
 ヒーリンは、山間に広がる閑静な保養地だ。昼間は涼しい風が気持ちの良い空気を送りこむけれど、朝晩の冷えこみはミッドガルとは比べ物にならない。
 飼い主の体調を気遣うツォンに、ルーファウスはやはり声をかけなかった。いつもなら小気味の良い皮肉めいた言葉で応えてくる彼だけれど、ツォンと二人きりになると、彼は稀にこうしてなにも話さなくなることがある。
 ツォンはそれに苛立ったり不安に駆られはしなかった。だってそれは彼なりの甘え方だと知っていたから。
 歳を取っても、いや、年月を経たからこそ、ルーファウスの態度や命令に遠慮はなくなった。そしてツォンは、その一つ一つを実直にこなすことで充足感を得ようとしていた。
 それは、ルーファウスを一人にさせて星痕に冒させたことへの、罪滅ぼしという意味合いももしかしたらあったかもしれない。
「──社長」
 カップに一口つけたあと、ルーファウスはカップを持ったまま動かなくなった。腰を下ろし、布に表情を隠した男の白くて細い指先が、俄かにカタカタと揺れ始めたのをタークスは見た。
「社長!?」
 ルーファウスが身を屈め、その体はビクビクと跳ね上がった。発作か、と、咄嗟さに察したツォンは不敬を承知でルーファウスに腕を伸ばす。
 屈んで様子を窺おうとすると、音を立ててカップが床に転がり落ちた。コーヒーが零れて散らばって、ルーファウスの着ていた服に染みを作っていくのが見えた。
「………なせ………」
 背中を丸めたルーファウスが、小さな声で呟いた。ハッとして、ツォンは彼の肩から手をのけた。けれど決して離れはせず、ルーファウスをじっと見つめる。
 命令には背かない。けれど、彼の意思に反することにならない範囲で、彼にまつわるどんな些細な変化でも決して見逃したくはなかった。
「お怪我はありませんか?」
 どうやら、今度の発作は短く軽くて済んだようだ。それに安堵はしたけれど、先刻まで湯気を立てていたコーヒーで火傷をしていないかと気にかかる。
 見てみると、大部分はルーファウスの外へと落ちてくれたらしい。一部が彼の袖口と、腿の上を茶色にしているだけのようだ。
「……指が、汚れた」
 そっとルーファウスの掲げた手から、コーヒーの粒が滴っている。相手の声音に発作の止んだことを悟ると、ツォンは安堵を深くして、しゃがんだ場所から立ち上がった。
「拭くものをお持ちします」
「持っているだろう」
 思いの外言い返されて、ツォンの足がピタリと止まる。なにを言うのか、と見下ろしたツォンの角度から、布に隠された男の優雅に刻まれた微笑が見えた。
 それはツォンの一部に激しく揺さぶりをかけ、そしてその影響はジワジワと全身へ侵蝕していく。まったくよく飼い慣らされたものだと、我ながら感心するほどだ。
 ツォンは再び膝をついて、差し伸べられた相手の右手に自分の両手をそっと添えた。そうして角度を整えて、臆させないようゆっくりと、逃げられるように慎重に自分の舌先を伸ばしていく。
 ぴと、と、指先に舌をあてると、苦味が伝わってきた。自分が淹れたコーヒーのものなのか、星痕の滲みも少しは混じっているのか、暗がりではわかるはずもないが、主人に不似合いな汚れであることに間違いはない。
 だからツォンは丹念に、丁寧にそれを舐め取った。濡らしてふやかした人差し指をちゅるりと啜ってしまうと、次は隣の中指にも舌を伸ばす。
 ルーファウスを蝕むものなど何一つあってはならない。星痕だろうが零れたコーヒーであろうが、ツォンにとってはもはやさしたる違いはなかった。
「その内、死ぬぞ」
 差し出された手を丁重に饗している男を見下ろし、ルーファウスは目を細めて嘲弄の言葉を吐いた。
 星痕症候群は、伝染する病気だと言われている。その実は定かではないし、伝染はしないというのがここに集うメンバーの共通の見解ではあったけれど、実際がどうなのか、誰も確かなことは言えない。
「……貴方次第ではありませんか」
 口唇を薄く開くと、濡らした相手の指を上に乗せたまま、ツォンは静かに呟いた。粗方汚れを拭い去って、唾液も全て吸い上げて、ちゅ、と音を立てながらルーファウスの指を離すと、黒い染みが刻まれて尚、美しく整った彼の掌は離し難く、両手で支える手の甲に恭しく接吻ける。
 ツォンの喉には、香ばしく豊かな風味のみが後味として残っていた。もしかしたら発作は起こらず、ただの芝居だったのかもしれない。
 けれど、その真相を暴く必要は無いと思った。触れてはならない相手へ奉仕することを、許されたのは事実であったのだから。
「貴方が死ねと命じるなら、命くらい、いくらでも差し上げますよ」
 そう言うと、ツォンは床に跪いて、腰掛ける男へと視線を向けた。携える微笑は挑発的な角度を描く。それを見るルーファウスが眉を顰めるのがわかった。
「──詰まらない男だ」
 ため息混じりに彼は呟き、ツォンは胸の奥が引っ掻かれたような心地になった。ツォンの預かったままの手は、未だ取り上げられていない。それはこれ以上触れても良いということだろうかと、至極自分に都合の良い解釈をしてしまう。
 今宵、言葉少なな主から、死ぬなと言われているような気がした。必ず生きて帰って来い、と、命じられているような気がした。
 今更なにを、と思うけれど、釘を刺されて奮い立ったことは事実だ。思わず、忠犬らしからぬ粗相を働きたくなる程には。
 ルーファウスは懐の深い男だ。ツォンが領分を踏み越えたとして、それを指摘はするだろうが、叱責はしないだろう。
 日が昇るまで、まだあと数時間ある。その間なにをしたとしても、誰にも知らせる必要はない。唯一、報告しなければならない相手は、今ツォンの腕の中にいたのだから。

【 END 】