軌跡<16>

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 スキッフに揺られるクラウドは、その床に腰を落とし、低く俯いていた。
 あれから数時間後に、ようやく辿り着いた帰還用の軍用機に乗り込む者たちの表情は暗かった。その中で唯一、ザックスだけが、来たときと同じ笑みを振りまいていた。
 モデオヘイム村の宿場で、駆けつけたザックスに気づいて身を起こすクラウドは、当初立ち上がることさえできなかった。アンジールによって叩き込まれたダメージは相当なもので、上体を起こすだけでも脳が芯からグラつくのが判った。
 クラウドが言えた言葉はたった二つ。大丈夫、と、役にたたなくてすまない、だ。
 クラウドの声は、アンジールには届かなかった。結局、クラウドは何も変えることができなかった。必死に伸ばした腕は、なにものも掴むことができなかった。幼き日のニブル山で、そうだったように。
 蹲ったままの少年の指先が、己の腕を痛く掴む。報告を終えて機関室から出てきたツォンは、ミーティングルームの片隅に座す彼を視止めていたが、なにも言わずにテーブルを取り囲む椅子の一つに腰を下ろした。
【 俺は、モンスターになってしまった。世界に仇なすモンスターは、駆除されなければならない 】
 アンジールの言葉を理解するのを心が拒む。何故、死ななければならないんだ。生きていて欲しいと願っている人がいて、生きていたいと願う人がいるのに。
 セフィロスの期待を受けていながら、宣言していながら、任されていながら、それを全うできなかった自分の弱さを恥じた。そして、暫くここで休んでいると言って、結局ザックスに全てを押し付けてしまった、自分の醜悪さを厭んだ。
 自らを叱責するクラウドの腕が、懐のマテリアを掴んだ。それは、ミッドガルを飛び立つ時にセフィロスに渡されたものだ。
 クラウドにそれを扱いこなすほどの力はなかった。ぐ、と力を入れてマテリアを握り締める。掌に納まる回復マテリアから、じんわりと広がる暖かさが、凍った心を溶かしてくれるようだった。
 スキッフは低い音を轟かせ、ミッドガルへと進んでいる。あと幾時間もすれば、目的地に到達するだろう。ツォンと空間を共有していながら、そこには重苦しい沈黙が立ち込めている。クラウドはグラつく脚でゆっくりと立ち上がった。
 机に両腕を乗せ、俯いていたツォンが顔を上げる。モデオヘイムに来るまでは、まったく意に介していなかった一般兵を、ツォンは個別の存在として確りと認識するようになっていた。
 クラウドと、かの英雄とに何らかの関係があることを知ったばかりでなく、あの時、あの場所で、途方もない挫折と罪悪感を共有していたという妙な連帯感が、ツォンの心に芽生えていた。
「俺、隣に居ます」
 小さな声で呟き、クラウドは扉の先に続く休憩室へと向かおうとする。その部屋には、重なる戦闘に、流石に疲れた、と笑って、早々にミーティングルームを出て行ったザックスが休んでいるはずだ。雪道の大移動、そして心と体に響くこのミッションに、彼も疲弊しきっているのだろう。
「ああ」
 答えるツォンの声も、歯切れの悪いものだった。それ以上の追及もせずに、ツォンは再びテーブルの上へと視線を落とす。
 無事にホランダーを確保し、脱走したソルジャー、ジェネシスとアンジールの二人の抹殺を遂行した。ミッションは完全な形でコンプリートされたはずだ。
 しかし、ミッションに従じた三人には、癒えることのない傷が残っていた。



   ■   ■   ■



 鉄の扉を開けるのを、重いと感じた。それは、クラウドの体に回復魔法だけでは補いきれない疲労が未だ残っているからもあるのだろう。
 ザックスがかけてくれたケアルラは十分体に染み込み馴染んだはずだったが、クラウドは拭いきれない躯の重みを感じていた。
――クラウド」
 休憩室には、二段ベッドが二つ並んでいる。低いほうの一方に、ザックスが寝転がっていた。
 壁にはアンジールがその背から決して離さずに装備していたバスターソードが立てかけられている。僅か上体を起こしたザックスは、軽く手を上げてクラウドを迎えてくれた。
 しかし、その表情にはモデオヘイムへ来たときとは違う、ぎこちなさが刻まれている。ザックスの笑みが、痛む胸に染みて、つんと鼻先に突き抜けるものを感じた。
「ごめん、起こした?」
「いや、まだ寝てなかった」
 気遣うクラウドに首を振るけれど、ザックスはそれ以上身を起こそうとはしなかった。再び寝台に横たわり、揺れる機体の中で逞しい体を奔放に横たえて、深く息をつく。クラウドは、それに相対するように設置されたもう片方のベッドの、低いマットに腰を下ろした。
「お前、頑張ったんだってな。ツォンから聞いた」
「…俺は、別に」
「アンジールのパンチ、効いただろ。俺も最初はクラクラした」
「ザックス、あのさ…」
 クラウドは口を開いたけれど、言葉に詰まった。少年の胸の中で、相手に伝えたいことが飽和していて、どれから口にすればいいのかわからなかった。
 首を横向くザックスの斜めの視線が、暗く翳ったクラウドの表情を捉えていた。
 変容したアンジールと刃を交える間、ツォンとクラウドがホランダーを確保していてくれた。いつしか雨の降り始めたモデオヘイムに、彼らを迎えに来たスキッフへと彼を護送するのを見守るザックスに、傍らに足を止めたツォンが教えてくれた。
 クラウドが、戦おうとするアンジールを止めようとしていてくれたこと。彼をソルジャーと、そう呼んでくれたこと。
――ありがとな、クラウド」
 クラウドが顔を上げた。困ったように眉を寄せて、苦しそうに言葉を詰まらせる少年へと、ザックスは笑ってみせた。
「…俺は、何もしていない。…何も、できなかった。」
「そんなことないさ。お前は十分、頑張ったよ」
 クラウドは再び、視線を落としてしまった。
 ここにくるまでは、ザックスを慰めようなどと、僭越ながらもそう思っていた。しかし、ザックスの漏らした感謝の言葉が、クラウドの胸を締め付けている。許されることで、自分の非力さを隠そうとしていたのだと自覚して、その狡猾さに辟易した。
 ザックスは、アンジールを友達だと言っていた。戦うしかなかった、彼を倒さざるを得なかった、そのプレッシャーと、喪ってしまった悲しみは、どれだけのものなのか、クラウドには想像がつかない。少なくとも、戦いを止められなかった自分の悔しさよりも、それは大きく彼の心を蝕んでいるのだろう。
 それなのに、ザックスはクラウドに笑みを見せる。その優しさと、強さとに、後ろめたさを否定できなかった。
「悪い、流石に疲れたみたいだ。ミッドガルに着いたら起こしてくれ」
「ぁ…、うん…」
 クラウドが二の句を告げる前に、ザックスは壁に向くように寝台の上を転がって、クラウドに背を向けてしまう。それ以上、ザックスに声をかけることができずに、クラウドは小さく頷くしかなかった。
 沈黙を乗せたスキッフは、大きなプロペラをごうごうと鳴らしながら、ミッドガルへと向かう。それはまるで、涙を流すことさえできない者の胸を引き裂く、悲鳴のようだと、クラウドは思った。



   ■   ■   ■



 神羅ビルの上層に設置されたヘリポートへと帰還したスキッフを迎えてくれたのは、ラザードだった。降り立つザックスへ、ツォンへと労いの言葉をかけた彼は、最後にクラウドへも声をかけた。
 ご苦労だったね、と、言って軽く肩を叩くと、ラザードはザックスを連れだって、神羅ビルへと戻っていった。捕縛されたホランダーが連行され、整備士だけが残るヘリポートで、クラウドは無言のまま、口唇を噛み締めた。
 それから暫くは平常任務にあたった。カームへ遠征した他の班員とは違い、残されたクラウドは神羅ビル周辺の警護に就いていた。
 退屈なだけの時間が過ぎていって、クラウドはその胸を充満する苦い感情を払拭することができずにいた。
 正式な異動通知が出たのは、それから三日後のことだった。査定の結果、負傷した者以外の大半が、ソルジャー候補としてソルジャー部門への異動となった。
 周りの神羅兵は、例の別働がソルジャー査定だったことを、その時初めて知ることとなった。それを妬む者もいたが、クラウドはそれに気づかない振りをしていた。ソルジャーを目指す道の険しさ、自分の非力さを如実に痛感することとなったモデオヘイムでの一日を経て、異動を素直に喜ぶことができなくなっていたからだ。
 セフィロスが帰還したのは、その日の夕刻だ。反神羅組織を打倒して帰還したセフィロスと、クラウドはソルジャーフロアのエレベーターフロアですれ違った。
 深くマスクを被っていたのに、顔を上げた彼はすぐに、クラウドに気づいたようだった。他のソルジャーを連れて歩いていた彼は、敬礼するクラウドの脇を通り縋る際に、少しだけ足を緩めた。
 そして今、クラウドは、その時に囁かれた言葉通りに、モデオヘイムへの出立の前に立ち寄ったトレーニングルームで、彼を待っていた。
 ただ、待つだけの時間。神羅の軍服に身を包む少年がそこに直立していることを、他のソルジャーたちは、まったく気にしてはいないようだ。クラウドだけが、居心地の悪さを噛み締めて、そこにいた。
 セフィロスが現れるまでの、ほんの暫くの時間さえ、まるで永遠に感じられるほどだった。あれから、常に懐に忍ばせていたフルケアのマテリアを、クラウドは握り締めた。
 セフィロスから預けられたそれは、彼の信頼の証のように感じられていた。それを握り締めるだけで、不思議と勇気が沸いてくるような気がする。
 だが、それだけではない。モデオヘイムから帰還してからというもの、それに触れると、苦しい気持ちになった。
 彼の期待に添えることができなかった無力感が、クラウドを蝕んだ。しかし、やはりそれを癒すために、クラウドはマテリアに触れずにはいられなかった。
 嘆息するクラウドの目の前に、セフィロスはいつもの装いで現れた。その表情は、以前となんら変わらない。コレルへの遠征の疲れをまったく感じさせずに、彼は言った。
「待たせたな」
 不敬にならないようにと外したマスクを小脇に抱え、いいえ、と首を振ると、クラウドは口を噤んだ。
 人気の無いトレーニングルームに入ると、セフィロスは慣れた手つきで脇の端末を操作する。そうして、ソルジャーフロアの一角は、誰も侵すことのできない密室となった。閃光に眼を伏せたクラウドが導かれたのは、あの、夕陽に燃えるジュノン港だった。
 潮風の薫る風は、それが紛い物であることを忘れさせる。茜射す光は柔らかく二人の影を伸ばす。
 擬似空間の体験はこれで二度目だ。未だ慣れないまでも、初めてこの場を訪れた時よりも感じる動揺は少なかった。
「お疲れだったんじゃないですか」
 コレルでの作戦が、思いのほか難儀しているとの情報は、クラウドの耳にも入ってきていた。徒党を組んだウータイの残党と、反神羅組織が隠密裏に手を組もうとしている、それを瓦解するための任務だった。抵抗勢力の反抗は凄まじかったと聞いたが、セフィロスの出動で事態はそれ以上の展開を見せる前に収束した。
「問題ない」
 短く応えるセフィロスは、クラウドへと緩やかに近づいていく。彼の、風に揺れる銀糸が、薄く紅に彩られていた。
「ご苦労だったな」
 その傍らに佇み見下ろすクラウドの横顔は、キャノンの先に沈みゆこうとしている太陽に照らされ、薄い紅を纏っている。クラウドは、セフィロスを直視することができずに視線を伏せてしまっていた。
「ミッション・コンプリート、おめでとう」
 セフィロスの言葉が、顔を上げることができないクラウドに突き刺さるように注がれる。その声音は穏やかで、棘があるわけでは決して無い。それを受けるクラウドの胸が、セフィロスへの後ろめたさ、自分の無力さに、締め付けられていた。
「ホランダーも無事に確保された。これで事態は収束するだろう」
 そもそものミッションの内容は、ホランダーの確保だった。ジェネシスとアンジールは大分前から神羅にとっては殉職者であり、その決定に現実が後からついてきただけであって、しかしその理不尽さも、神羅にとって大きな意味はない。
 むしろ、ジェネシス軍に脅かされることがなくなった、それだけで十分過ぎるほどの意味を有していた。しかし、クラウドが以前にこの場で約した誓いは、何一つ果たされてはいなかった。
 クラウドは、軍服のポケットに転がっていたマテリアを取り出した。無言のままそれを差し出すクラウドへと、セフィロスは問う。
「……どうした」
「お返しします」
 セフィロスが片眉を上げる。けれど、その表情の変化を顔を伏せたままのクラウドは見ることができなかった。
「…俺は、なにもできませんでした。約束を…果たせませんでした」
 コレルから凱旋したセフィロスは、その報告の席でラザードから直接、モデオヘイムで何があったのかを聞いていた。ジェネシスが死んだこと、アンジールが死んだこと。ザックスが、その役を果たしたこと。
 セフィロスは差し出される手と、前髪を潮風に揺らしてこちらへと腕を伸ばす少年を、交互に見やった。
「俺は…あそこにいただけだ。役に立たなかった。連れ帰るだなんて偉そうなこと言っておいて、ザックスに全部押し付けて、蹲っていただけだ」
 普段は思いを言葉にすることが不得手なクラウドであったが、ここ数日の退屈さの中で嫌というほど痛感してきた思いを吐き出す口は饒舌だった。
「そんな俺が…ソルジャーになんて、なれっこない」
 非力な自分は、無力な自分は、そんな夢を抱くことさえ不遜なことだと思った。セフィロスは、黙ってその叙情に耳を傾けていた。
――ごめんなさい」
 クラウドは、掻き消えそうになる声を絞り出した。マテリアを掴む指が震えるのを、抑えることができなかった。
「……二人は、何か言っていたか?」
 ようやく口を開いた英雄の問いに、クラウドは息を詰まらせた。記憶に残る、アンジールが最後に見せた微笑が脳裏に浮かぶ。
「…アンジールから、あなたに、……『ありがとう』、と…」
 クラウドの震える口唇から紡がれたその言葉に、セフィロスの胸が一瞬、強く跳ねた。
 きっと彼は、理解したのだ。セフィロスがこの少年に託したものを、汲み取ったに違いない。
――そうか」
 セフィロスは口許を緩めた。その吐息に気づき、クラウドは顔をあげる。
 端整なその顔に、射し込む夕陽が穏やかな笑みの影を落とす。見上げるクラウドは、一向に引き取られる気配の無いマテリアを握りしめる腕をゆっくりと下ろした。
 優しい微笑みなのに、それを見るクラウドの胸は、感じる切なさに痛むほどだった。
 朱の差し込むジュノン砦の先端に立つ少年の白い肌が、淡く色づいている。風に流れる金髪が光を受けて煌いていた。
 その表情は痛切に歪められていて、彼は開かれた口唇を再び噛み締める。何故、彼は苦しそうなのだろうか。セフィロスの魔晄の瞳が、悲痛に震える少年に注がれていた。
「何故、お前がそんな顔をする」
 伸ばしたセフィロスの指は、クラウドの握りしめるマテリアを拾おうとはしない。その代わりに、苦しげに歪んだクラウドの頬に伸ばされた。
 さらりと、風に揺れた前髪をそれが掠める。指先が肌に触れぬうちに、クラウドは首を振った。
「何故、あなたはそんな顔をしているんですか」
 セフィロスの指が止まった。
「聞いたんでしょう? 二人がどうなったのか。知っているんでしょう?」
 少年の大きな瞳は、夕陽に紅く照らされても尚、碧色の彩を放っている。大きく見開かれたそれが零れ落ちそうなほどに、震えていた。
「ザックスも…アンジールもそうだ。なんで、笑っていられるんだ」
 セフィロスは気づいていた。
 あの日、神羅ビルの屋上で、アンジールとジェネシスと別れた夜。セフィロスは、ジェネシスを倒すことができなかった。彼を敵にすることができないセフィロスは、彼の望むような、英雄にはなれなかった。
 セフィロスは、アンジールを止めなかった。彼の誇りが、彼の生くるのを許さないと知っていながら、それを咎めることすらしなかった。
「なんで、闘わなきゃいけなかったんだ。誰もそんなこと、望んでなかった」
 定められた宿命には、抗わずにいられない。けれど、既に動き出した運命には、従うしかない。
 それに抗おうとする勇気を抱くことが、セフィロスにはできなかった。
「生きていてほしいのに、生きていたいのに、どうして――
 以前、この場を訪れた時、この少年はセフィロスが抱くことのできなかった強い意志をぶつけてきた。セフィロスの諦めた宿命に、運命に、逆らおうとしていた。自分が言葉にすることのできないそれを、この少年であれば伝えられると思った。
「なんで、笑ってられるんだよ…」
 事実、アンジールからの伝言に、その願いが成就したことを理解した。たとえ結果を導くことができなかったとしても、それで十分だった。
 セフィロスはようやく理解した。あの時自分は、彼を、羨ましいと思ったのだ。美しいと、そう思ったのだ。
「悲しいのに、辛いのに……どうして……」
 出会った当初は儚いとすら感じたのに、あの時の彼は確かに美しく、その輝きは、眩いほどだった。そして今、慟哭を響かせる彼の、なんと美しいことだろう。
 彼の悲痛な叫びは、漣を打つ静かな海に溶け、沈黙を紡ぐセフィロスから、笑みが消えた。
 セフィロスの指が、柔らかい弾力に触れる。朱の射し込んだ頬に親指を添えて、残る指が曲線を描く輪郭を包み込む。激情を溢す少年へと、静かに彼は尋ねた。
「お前は、何故、泣いている」
 思わず驚いて瞬いたクラウドの瞼から、一粒の雫が零れ落ちた。自分でも気づかない内に溢れていたそれは、頬を伝ってそれに添えられたセフィロスの親指を濡らす。
 その理由は決して、悔しいからじゃない。弱い自分が疎ましいからじゃない。
 世界を恨まずにいられなかった男の痛みが、自分を滅ぼすことで誇りを貫こうとした男の痛みが、その腕で振るう刃に心を引き裂いた男の痛みが、そして今、自分の頬に触れる男の痛みが、クラウド自身も知らぬうちに、溢れだしていた。
「いや…これは…」
 クラウドは顎を引いて、セフィロスから離れようとした。しかし、クラウドの頬を捕らえたままのセフィロスの指がそれを許さない。
 ぐ、と力をこめて彼を上向かせると、親指が頬骨の上の窪みをなぞってそれを拭う。瞬くクラウドの瞳から、それはいくつも溢れ出でて、それは彼自身にも制御することができなかった。
「器用な奴だ」
 セフィロスの口唇から、いつもの、ふわりとした柔らかな笑みが零れる。空いていたもう片方の頬までも、セフィロスの掌に包まれて、クラウドは微動だにできない。持ち上げられる顔が上向かされて、クラウドの視界をセフィロスだけが支配している。
「…セフィロス……?」
 小さく名を呼ぶその口唇が、なにか柔らかなものに塞がれた。零れそうなほどに瞳を大きく瞠いて、クラウドはその身を硬直させた。
 大きな驚きに瞳を震わせるクラウドの目尻から、新たな雫が結ばれる。溢れ落ちたそれは、セフィロスの指を伝って顎先に流れ、唾液を飲み下す喉を這った。
 これ程の愛しさを、今まで感じたことがなかった。何故、どうして。理由は明確ではない。
 神羅の英雄にとって、その存在は他の雑兵と同じく、塵芥に過ぎなかった。しかし、自分の抱くことさえできなかった強い意志にその身を焦がし、今こうして自分の代わりにその頬を涙で濡らす彼を前に、セフィロスの胸に溢れる思いを、愛しい以外のなんと呼べばいいのか。
 口付けた場所から伝う温もり、交わす吐息の温かさが心地好い。瞬間的に全身を強張らせて緊張したクラウドの体から、ゆるゆると力が抜けていった。
 英雄の掌は力強く、けれど今までクラウドが想像していたどれとも違う、優しさを持っているのだということを、クラウドは知っていた。その手で敵を冷酷に、けれど華麗に薙ぎ払う強靭な彼であるのに、細められた視線も、囁く声も、時折零す吐息のような笑みも、触れる指先も、そして今、確かに交わしている、口唇も。
 この口付けにどんな意味があるのかはわからない。何故、どうして。クラウドの脳裏に沸いた疑問は消えなかったが、激しく波立って、傾いでいた心が柔らかく解され、穏やかになっていくのに気づいていた。
 沈み行く夕陽は既に水平線に飲み込まれてしまった。煌めく太陽の残り香に照らされて煌めく水面が踊る。張り詰めていた瞳をゆっくり瞬かせると、湛えていた涙が濡れた頬に新たな筋を作る。頬を包み込む指でクラウドを象るラインをなぞり、それを拭う。
 瞳を閉じて、セフィロスの手の中で微かに震えたその少年は、夕陽の翳ったジュノンで、未だその表情に薄い朱を刻んでいる。触れるだけの口付けを、一体どれだけの刹那続けていたのだろうか。
セフィロスはようやく、ゆっくりと屈めていた背を起こす。
――クラウド」
 その名を呼ぶと、胸の内から、なにかあたたかな想いがこみ上げてくるのがわかった。
 その名を呼ばれると、胸の内から、自分を蝕むありとあらゆるしがらみが解けていくのがわかった。
「クラウド」
 セフィロスは今一度、その名を紡ぐ。応えるように濡れた睫毛を解いた碧の双眸の先に、セフィロスが居る。
 親指が確かめるように口唇をなぞると、薄く開かれたその場所に、再び口付けを施した。
 二度目のそれを、クラウドは強張ることなく受け入れる。上唇の尖りを挟むように啄ばみ、優しく食む。
 瞬間、ドクンと音を立てて広がった衝動に、セフィロスは驚いた。それを堪えて息を呑むセフィロスの喉が上下に動く。
――今、俺はなにをしようとした…?
 その衝迫は、動揺となってセフィロスを困惑させた。彼の微動に気づいたクラウドが、窺うように瞳を開く。
 両の掌で包み込んだ頬を、今一度拭うように撫でると、セフィロスは顔を上げた。
「……セフィロス…?」
 その名を呼ぶ少年は夢から醒め、その意味を知ろうと口を開く。
「あの…今のは……」
 頬を滑った親指がクラウドの口唇を押さえ、それ以上の言葉を阻む。喉までこみ上げた言葉を、クラウドは飲み込んだ。
 見上げる彼の魔晄の瞳が、夜の帳の下りていくジュノンの薄紫色の空を背負い、細く煌く。ゆっくりと降ろした腕で、マテリアを握ったままのクラウドの手を、その上から握りこむように掴む。
「これは、お前が持っていろ」
「……でも…」
「持っていろ」
 有無を言わせぬセフィロスの言葉に、クラウドは困惑しながらも、頷きを返した。クラウドに強さを与えぬように、セフィロスの手がそっと離れる。
 踵を返し、キャノンを背に歩き出す彼の背中を追いかけようとしたクラウドの周りで、その世界を構築していた要素がパラパラと崩れていく。閃光に視線を伏せたクラウドが再び顔を上げると、そこは先ほどと変わらぬ、神羅ビルソルジャーフロアのトレーニングルームに姿を変えていた。
「クラウド」
 セフィロスが足を止める。たなびかせていた銀髪が踊った。マテリアを掴んだままその背を眼で追うクラウドへと、セフィロスは言った。
「強くなれ」
 クラウドは息を呑んだ。表情を見せないセフィロスの声が、静かに、けれど確かに、冷たい部屋に響く。
「強くなって、ソルジャーになって…俺と一緒に、闘うんだろう?」
 それは、朝日の差し込む洞窟で告げた、くだらない、子供じみた、未だ遠い夢だ。
「待っている」
 口付けの余韻を残す口唇が、躊躇うように震えた。
 自分という存在は余りにも無力で、その背を追うことすらもはや、許されないのではないかと思っていた。なにも捕らえることのできなかった腕を持ち上げた少年の手に、マテリアが握られている。それは、淡い碧色の色彩を放って、優しい光を保っている。
 躊躇い、戸惑い、困惑し、拉いでいた心が、なめらかになっていった。クラウドはゆっくりと、その胸にしみこませるように、息を吸い込んだ。
――……、必ず」
 以前、この場を訪れた時、誓った言葉と同じに、クラウドは契る。見えない場所で、セフィロスの笑む呼吸を感じた。
 歩き出す彼の背中を、クラウドは追いかけた。
 いつかきっと、その隣に立つ。今クラウドは確かに、自分でそう望み、彼にそう望まれたのだと自覚した。
 封印の解かれた部屋を、一人の男と、一人の少年が後にした。
 遠のいていく足音の後ろで、トレーニングルームの自動扉が、音も立てずに静かに閉じられた。



   ■   ■   ■



――夜。
 異動の手続きを終えたクラウドは、召喚に応じて、神羅ビルの麓に立っていた。ソルジャー候補生として並ぶクラウドの前に現れたのは、ザックスだった。
 その背中に、敵を薙ぎ払う圧倒的な武器を背負う彼は、髪型を変えて、いくらか落ち着いた風に見えた彼は、並ぶ多くの兵士の中からクラウドに気づいて、軽く肩を叩いて、融けるような笑みを漏らした。
「ソルジャーになりたいって? 頑張れよ」
 触れられた場所が、そして確かな意志を宿した胸が、燃えるように熱くなった。
 強くなろう。それは希望ではない。そう、決めた。それに、約束だってした。
 くだらない、子供じみた、未だ遠い夢。
 けれど、それはなにものにも変えがたい、夢で、誇りで、憧れで。
 それは誓いで、プライドだった。
 軌跡は、ここから始まった。
 宿命が如何に彼を蝕もうとも、運命が如何に彼に降り懸かろうとも。
 何をおいても、挫くことはできない。何を犠牲に、したとしても。

【 END 】