It's a wonderful life.<06>
ザックスが帰宅したのは、まだ陽も高い昼下りだった。いつもならば午後の訓練メニューをこなしている時間帯だ。
そんな時間に帰宅するのは久しぶりで、ザックスはまず武器を外し、靴を脱ぎ、リビングのソファに腰を下ろして、脚を奔放に投げ出した。
候補生たちはカンセルに連れられて、ソルジャー試験のためにジュノンへと向かっていった。指揮官であったザックスは任務を解かれ、規則正しい勤労から解放された。
戦闘の真似事を繰り返す毎日に飽き飽きしていたから、喜ぶべきことだった。それなのに、ザックスの心はずっしりと重たいままで、ソファに沈めた体躯をピクリとも動かせずにいた。
ザックスは、ため息を漏らした。座っているだけで、肉体を侵食する疲労感のようなものを感じていた。
八番街の奥、広い区画に建てられたソルジャー居住区には、中心部の賑わしさも届かない。ほかにすることもなかったから、ザックスはその正体がなんなのかを考え始め、今朝からの出来事をひとつひとつ思い起こし始めていた。
ザックスは、ソルジャー試験の視察のため、ジュノン行きを命じられた。この一週間、ミッドガルに閉じ込められてきた青年ソルジャーは、ようやく外に出れるのだ、と、大層喜んだ。
朝のソルジャーフロアを、候補生同士の小競り合いが賑わせた。ソルジャー同士の拳闘は法度に触れ、統括代行であるセフィロスの審判を受けることになった。
審問されるクラウドは、明確な説明を避けた。その隣に佇む男のにやついた笑みがちらついて、ザックスはピリリと眉を痛ませた。
クラウドをいたぶったのはアイツだ。アイツがクラウドをなぶり散らし、苦しめていたに違いない。
そんなことはわかりきっていたのに、セフィロスも、カンセルも、クラウド本人も、彼を救わせてくれなかった。クラウドはソルジャー試験の受験資格を奪われて、夢への第一歩を挫かれた。
ザックスは今一度、深いため息をついた。クラウドの痛恨の表情を思いだし、苦い気持ちが胸を締め付けた。
忌々しい青年候補生はソルジャー部門から破門されたけれど、それだけでは勘弁ならない。クラウドにソルジャー試験を受けさせてやってくれ、と、ザックスはセフィロスに詰め寄った。
しかし、英雄と謳われた男は温情の無い辛辣な言葉を吐いて、決定を覆さなかった。
苛々した。納得できなかった。それがどれだけ正当な理由だろうと、納得していいわけがない。
訓練棟の片隅でうちひしがれる少年の痛々しさを思いだし、ザックスは眉を痛めたまま、瞳を閉じて、天を仰いだ。
クラウドが大切だった。彼を、守ってやりたかった。
運命に取り残され、宿命に翻弄され、モデオヘイムの雨に打たれたザックスは、クラウドに間違いなく救われた。だからおかえしに、だから同じように、クラウドの力になってやりたかった。
―― ソルジャーになんて、ならなくていい。
絞り出すように呟いた言葉を思い出す。瞼に焼き付いたクラウドの痛切な貌が脳裏を過り、ザックスは目を開けた。
なんてことを、言ってしまったんだろう。彼をどんなに傷つけたことだろう。
染みの無い天井の一点を見つめながら、こぼした吐息は鈍色だった。
―― 俺のことは、ほっといてよ。全部忘れて。俺のことは、忘れていいから。
返ってきたのは、絶望的な言葉のはずだった。密やかに、大切に育んできた絆は既に壊れてしまって、修復なんて不可能だ。
そう、言っているように聞こえた。事実、そうなのだろうと考えていた。
ザックスは、ソファに乗せたまま緩く開いた手を結んだ。そこには、クラウドを抱き締めた温もりがまだのこっているような気がして、それを逃がしたくなかった。
「…ごめんな、クラウド」
同じ言葉を、ザックスの口唇が諳じた。二人で過ごしたのは短い期間だったけれど、恍惚とした平穏に満たされていた。生ぬるい馴れ合いの息苦しさに、クラウドは音を上げた。
けれど、どうしてそれを責められるだろう。優しく甘ったるい温もりで、自分もまた、クラウドを追い詰めていたと知ったのに。
無自覚に、ザックスは微笑っていた。ソファの背を広く使い、両肘をもたらせて、張った胸は緩やかに活動する。
ザックスは、決して落ち込んではいなかった。クラウドと拙く結んだ糸は断ち切れてしまったけれど、次に結ぶ絆はもっと太いものになると確信していた。
俺は、クラウドをソルジャーにさせたかったわけじゃない。クラウドに、ソルジャーになってほしかったんだ。
履き違えた目的を取り戻したから、もう間違えることはない。もし間違えたとしても、きっと立て直せるはずだ。
触れて確かめた温もりの柔らかさも、兵舎に戻るクラウドのはにかむような微笑も、ザックスの根拠の無い予感の説得力を補強した。それでも、ぽっかりとした心の空虚は否めなかった。
痛みすら無いものの、しっかりと自覚できる脱力感がある。胸に吸い込んだ空気は留まらず、ため息となって空いた場所から逃げていった。
こんな時は、どうしたらいいのだろう。ザックスは、空いた体、空いた時間を持て余していた。
いつものように、誰かと騒いで誤魔化すことなんてできない。休暇を明日に控えた今、ミッションもこなせやしない。
握りしめた掌を広げ、そこに刻まれた皺を見下ろした。掴んでいたものがなくなって、感じる寂しさは確かにある。けれど、それに酔いしれていたいとも思う。
ただ、少しだけ疲れてしまったから、癒されたいとは望んでいる。掌は無意識に重みを欲し、枯渇していたザックスは、足りないもののかたちを思い出した。
ザックスは、モバイルを取り出した。そこには、いくつもの連絡先が登録されていた。
同僚のソルジャーや、任務を共にするタークスたち。ミッドガルで出会った女の子たちのものもある。
整理なんてしていないから、目当てのものを探すには時間がかかった。ザックスはその中から、今必要なたったひとつを探し当てて、端末をそっと耳に当てた。
「もしもーし」
彼女に繋がるかどうかは、半信半疑だった。もしかしたら、同居している彼女の母親に繋がるかもしれなかった。それはそれでばつが悪かったけれど、彼は一か八かの賭けに出た。
繋がった電波の向こうで、息を吸う音がした。
「どちらさま?」
はっとする声で、彼女は尋ねた。ザックスは息を呑んで、そして、和やかに破顔した。
「傷つくなぁ。俺のことなんてもう忘れちゃった?」
声音に辛辣な気配はなかったから、茶目っ気のある冗談なのだろう。受話器を握って、微笑む彼女の笑みの形を思い出せる。
エアリスと繋がって、安堵が胸に染みていく。
彼女と最後に会ったのは、確か半月前だ。電話越しの返答にドキドキして、ザックスの心は続く答えに期待した。
「忘れられたって思ってた」
ソルジャーの肩書きがある以上、会社の決定は絶対だ。毎日が命がけで、いつ何時、どこでついえるともわからない身の上だ。
そんな自分が忘れられても文句は言えないし、だからこそ今を精一杯楽しむのがザックスの信条だ。しかし、育てる花の表情に一喜一憂するような繊細な少女に、同じだけの重荷を背負わせるのは不本意だ。
一瞬の苦笑の後、ザックスは神妙な面持ちになって、受話器の向こうへと、そっと囁いた。
「…ごめん、待たせちゃったな」
同じミッドガルにいたのに、忙しいだのなんだのと理由をつけて会わずにいたのは、強がりもあったのかもしれない。あんな姿を見せた後だったから、どうにも格好がつかなかったのだ。
「待ってなかった」
咄嗟に、電話越しでよかった、と思った。期待してはならないと思っても、理性で心までは束縛できない。
エアリスの漏らしたたった一言に虚を突かれ、隙を許したソルジャーの硬直を解きほぐすように、少女は微笑う。
「だから、嬉しい」
置いていかれるのは、きっと私の方なのだろう。エアリスは、いつもそう考えていた。
彼は私とは違って、空の色を知っている。羽ばたく喜びも知っているのだろうから、彼が飛び立つのを止められやしない。
待っていたいと願うのは我侭で、待つのが辛いと詰るのは傲慢だろう。待つのを諦めた少女にとって、ザックスからの来電は嬉しい驚きだった。
緊張が緩んだのを悟ると、意地悪もそこまでにして、彼女は受話器のコードを指に絡めて問いかけた。
「お仕事、終わったの?」
一瞬ひやりとさせられたが、エアリスの無邪気な笑みが脳裏に浮かぶ。買い与えたリボンを揺らして微笑む姿を見逃さないように、ザックスは瞼を閉じた。
「終わってないかも」
「サボっちゃダメ、だよ」
「休憩中なの」
こうして会話を交わすのは久しぶりで、ポンポンと飛び交うキャッチボールは心地よかった。閉じた視界に映る少女の眩い微笑に、蓄積した疲労も色褪せていく。
「最近…、色々あったんだ」
モデオヘイムから帰還後、ザックスはすぐに、カームでのモンスター掃討ミッションに借り出された。ミッドガルに帰還して、訓練続きのつまらない日々のはずなのに、なにかとめまぐるしく事態は変化して、色の無い日など一日も無かった。
「ザックスは、いつも忙しいね」
「最近は特別」
本領を発揮できないで、取り残されていくことに焦りを覚えた。必死にしがみつき、食いついて、空回ってしまった。
あれら全ては失敗で、無駄な出来事だったのだろうか。そう思うと苦しくて、ザックスの語気が下がる。
「頑張ってた?」
「どうかな」
自嘲気味に、ザックスは答えた。
エアリスを不安にさせてまで、得たいものはあったのだろうか。無様なりに抗って、得られたものはあっただろうか。
『待ってなかった』の言葉は、ザックスの不義理を不問にした。握ったままの左手に、クラウドの記憶が刻まれていた。
「…うん、頑張った」
それは少し切なくて、苦く愛しい思い出だった。忘れていいと言われても、忘れたくなどないほどの。
次に会うときは、どんな自分でいるだろう。どんな彼に出会えるのかと考えると、楽しみは増す。
未来への期待を胸に秘め、飲んだ息で胸を冷やす。エアリスとの会話は久しぶりで、ザックスは明るい調子で問いかけた。
「そっちは? どうしてた?」
エアリスはきょとんとして、瞳をパチパチと瞬かせた。
エアリスの日常は、相も変わらず『普通』そのものだ。『ザックス』という非日常がない限り、毎日は大差ない平穏の繰り返しだ。タークスをいなし、教会に通って、花の世話をするだけだ。
「お花たち、みんな元気」
「エアリスは?」
答えにくいことを問われ、エアリスは困ったように眉を寄せた。受話器を握ったまま自分を見下ろしてみたけれど、変わったところは何一つ無い。
ただ、つい今しがたから、胸にほっこりと感じる温もりがある。それは空いた部分にじんわりと染み入って、痛みも辛苦も忘れさせる。
だからこそ、今までそれを耐えていたのだと思い出して、擽ったいような喜びが芽吹いていく。
「うーん」
どう言おうか、と、エアリスは悩んだ。
また、拗ねていじめてみようか。しかし、声だけの繋がりで鮮やかに自分を魅了してくれる相手に、思う感謝も確かにある。
「頑張ってた」
「お花の世話?」
「他にも、色々」
言葉に含めた意味を、受け取ってくれるだろうか。気づかないほど鈍感だとは思わないけれど、気づかせるのも気恥ずかしい。
「なーんだろ」
案の定、ザックスの得意げな笑みが、エアリスの耳に届いた。彼がそれ以上調子に乗らないように、エアリスはつんと取り澄ます。
「教えない」
「教えてよ」
ザックスが、少し自意識過剰ともいえる軽口を叩くのはいつものことだ。歯が浮くような台詞を吐く彼を、軽薄だとは思えなかった。
誰か一人と親しくなって、その人を特別に想っている。こんなことは初めてで、だから俄かには信じがたい。
自分の心も、相手の言葉も、信じるには頼りなくて、慎重にはぐらかしている。それなのに、ザックスが気障な風を見せたかと思えば、時折甘えてみせるから、甘やかしてみたくなる。
「気が向いたら、ね」
てっきり、いつものように馬鹿にされると思っていたが、帰ってきたのは好意的な反応だった。片眉を持ち上げて、薄く開いた口唇からは笑みが抜けていく。
ザックスは背中を浮かせ、膝に体重を乗せた。身を乗り出して、エアリスの気が変わらぬうちに、ザックスが言う。
「じゃあ、今度会った時」
「いつ来るの?」
次の約束を結ぶのは、女の子とのお付き合いには必要不可欠な定石だ。しかし、彼女はなかなかそうさせてくれない。
無論、ザックス自身もなかなかに約束を叶え難い生活でいる。だからこそ気持ちは逸り、待望する青年に現実が重く圧し掛かる。
「もうちょい先かな。明日からコスタなんだ」
「コスタ?」
バカンスを命じられたザックスは、明日早く、ミッドガルを発たなければならない。不本意ではあったけれど、苛立つ声や愚痴なんて聞かせたくなかった。
「コスタ・デル・ソル。海の向こうにある観光地だ。綺麗なビーチがあってさ、バカンスにはピッタリのところなんだ」
誰もが憧れる観光地だが、当然、エアリスはそこに行ったことなどなかった。彼女が海を渡ったのはほんの小さな子供の頃で、その記憶もまるで定かではない。
「遊びに行くの?」
「半分、仕事かな」
「ふぅん」
まだ暫く会えないのだとわかると、華やいだ声も萎れてしまう。仕事だと聞いてしまったから、エアリスはザックスを揶揄う術を失った。
電波の向こうの冷えた空気を和らげようと、ザックスは言った。
「いつか、一緒に行こう」
それは、約束というには拙い言葉だった。希望というには切迫していて、誘惑というには純真だ。
「船に乗って、海を渡って、水着に着替えて、二人で一日中遊ぶんだ」
そうなることを想像して、胸の奥が擽られるような心地だった。
翳り始めた陽の光がカーテンから斜めに差し込んでいる。夕暮れに向かう柔らかい雰囲気の片隅で、ザックスの空想は憧れのコスタのビーチへと繋がった。
まるで、夢、のようだった。青い空の下、青い海を仰ぎ、二人で過ごす時間はきっと眩く煌くことだろう。
分厚いプレートの下にいるエアリスには、想像は儚い幻だった。ザックスの目に見えているのがどんな情景なのか想像もつかなくて、少女はくすくすと笑みをこぼした。
「なんか、不潔」
「そんなことないって」
下品な男だと思われるのは、心外だった。誤解を否定したかったが、エアリスが楽しそうだったから、自分のプライドなどどうでもよくなった。
不意に、ザックスは立ち上がり、陽の光にいざなわれるように、窓辺へと歩いていく。ミッドガルの分厚い雲間からそれは差し込んでいて、埃で汚れた空気を白く照らし、引いたカーテンの隙間から注ぎ込んでいる。
同じ光は、プレートの下部にいる少女にも届いているだろうか。ミッドガルで見つけた、一輪の花。彼女はいつもザックスの心に華やかな彩を与え、芳しく包み込んで、うっとりと蕩かせる。
「もっと笑って」
耳に、エアリスの音が触れる。たったそれだけで、世界は変わっていく。
他の誰とも比べられない大切なものは、確かにここにもあったのだ。そう実感したザックスの言葉は、迷いの無い真実だった。
「エアリスの声、ずっと、聞きたかったんだ」
消耗して、疲弊しても、擦り切れた部分を彼女は優しく癒してくれる。もやがかった日光が触れた場所はほんのりと暖かくて、ザックスは窓に半身を預け、その遥か向こうを覗いていた。
「…声だけ?」
エアリスの家にあった電話は古びていて、コードの続く範囲でしか会話することができない。くるくると螺旋を描くコードを絡めて遊んでいた指が、す、と離れた。
少女の爪先は自然と窓辺へと向かい、腰を窓枠に預けるような形で、外の景色を臨む。プレートの合間から陽の光が差し込んでいて、暗い地面を照らしている。
「会いに行くよ」
ザックスの囁きは、エアリスに新鮮な喜びを齎した。彼の言動はいつも少女を翻弄し、新しいものを刻んでいく。
少しときめいていて、華やかで、鮮やかな感動だ。今もまた、彼のこぼす囁きに心は明るくなり、そして同時に僅かな切なさを刻み付ける。
「コスタから帰ってきたら、一番に会いに行く」
いっそ忘れていてくれたら、怒る事だってできたのに。憎むことだって出来たし、悲しみに浸ることだってできただろう。
彼と過ごす時間を思い出に出来ず、次への期待が芽吹くのを止められない。空を掻いたエアリスの指先は、細かく紡がれたレースのカーテンを食んだ。
「約束しないで」
人を待つのが喜びだ、なんて、誰の言葉だっただろう。そんな戯言は信じられない。共に居る喜びを知ったから、切なくて、苦しくて、息が出来なくなる。
「待ちたく、ないから」
見込みも無いのに、期待も薄いのに、どうして待っていられるだろう。叶わないのだと言い聞かせ、信じることすら諦めてしまいそうだ。
いつものように軽口を叩いて、この不安を取り除いてくれないか。カーテンを手繰り寄せ、柔らかな布地に頬を寄せ、エアリスは小さな呟きに淡い期待を乗せた。
息を吸い込む音が伝わり、続く言葉が少女の期待を裏切った。
「――わかった」
音を上げたエアリスを、咎める資格なんてない。ザックスは自分の領分をしっかりと理解していた。
窓ガラスに指先だけでなく、掌も擦り付ける。額を窓に寄せ、吐き出す吐息に窓は白に染まる。
「でも、一個だけ」
硬直したエアリスの時間が動き出さない内に、ザックスは呟いた。窓辺に佇む青年は、その額をガラスに預け、約束でなく誓いを立てる。
「待ってなくてもいい。いつになっても、どんなになっても、俺はエアリスに会いに行く」
大切なものは、一つじゃない。聖人になどなれないから、叶えたい夢も無数にある。
強欲な青年は、荒地に咲く野の花の美しさに心を奪われた。不足を訴える体を引きずったまま、空色の瞳を開いて、彼は切望を口にする。
「会いたいんだ」
待っていて欲しいだなんて、言えなかった。ただ、何を欲しているのかだけは痛いほど理解していた。
瞳を開くと、ミッドガルの薄汚れた街が広がっている。生まれ育った故郷とは違い、都会はごみごみしていて、それが尚更、ザックスの想いを痛切にしていた。
軽薄でない彼の言葉は、エアリスの胸に、ずん、と響く。あるときは驚愕と悲嘆を与え、あるときはこうして柔らかな喜びを齎してくる。
それに翻弄されるのも、悪くないと思えるのは何故だろう。レースを掴んだ指先で痺れた頬を拭い、エアリスははっきりと頷いた。
「うん」
ザックスは、安堵した。めまぐるしく変化していく中でも、変わらぬものは確かにあったのだ。
変化、しているのかもしれない。けれどそれは決して悪い働きではなく、無気力だった体に活力が満ちていくようだ。
「花売りワゴン、作ろうな」
雲間からのぞく夕陽を浴びる窓に背を凭れ、ザックスは笑みをこぼした。会いたくない、と突っぱねるでなく、受け入れてくれる彼女のために働きたいと思っていた。
電話口は沈黙が続き、暫く、答えは返らなかった。不審に思い、ザックスは問いかけた。
「エアリス?」
エアリスはこれまで、極力目立たないように、普通を模して生きてきた。教会で蹲っていた少女の前に、変化は唐突に訪れた。
変われるだろうかの不安も、変わっていいのかの不安も、彼がいるなら自信に変わる。変わりたいのだというささやかな希望を掬い上げられた喜びに、エアリスは破顔した。
「覚えてたんだ」
「もちろん」
ミッドガルは花でいっぱい。財布はお金でいっぱい。
きっとみんな、笑顔がいっぱい。君も僕も、幸せいっぱい。
「約束したろ?」
会ってどうしようか、なにをして過ごそうか。結んだ約束に期待は増して、待ち遠しいと思えるほど。
「うん――」
叶わないのは寂しくて、待つ時間は苦しくて。それでも待っていたいのだ、と、繋がりたい、と自覚する。
「――待ってる」
いつか、どこでかは関係ない。
必ず来るその日に続く、今日があって、明日がある。
ああ、なんて素晴らしい一日。
ああ、なんて、素晴らしい人生。