It's a wonderful life.<15>new

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 ぱちりと瞬きをして、ザックスは深い眠りから目を醒ました。
 驚くほどさっぱりと覚醒したものだから、まだ夢の続きではないのかと勘ぐってしまう。けれどそもそも夢を見ていたのかどうかすら覚えていない。
 ザックスの腕の中では、クラウドがまだ健やかな寝息を立てていた。二人の顔の近さに思わずごくりと息を呑むと、ザックスはしばらく相手を見つめてから、すう、と体から力を抜いた。
 男同士で一つのベッドに並んで寝そべり、抱き合って眠るなどおかしなことだとわかっている。誰かに見られなかったこと、相手が先に起きなかったことに安堵して、ザックスはそっと目を閉じた。
 ザックスは左腕の上にクラウドの頭の重さを感じていた。こうしていられる特別は、もう二度とやってこないかもしれない。
 音のない柔らかなクラウドの吐息が、ザックスの胸を暖めていた。細く柔らかい髪がザックスの顎をくすぐって、腰の上に乗る相手の手が無警戒さを象徴していた。
 電気を点けていなかったから、部屋の中には夜が染みこんでいる。時間を調べるためには携帯を見るのが早いが、ザックスの腕はまだこの温もりを手放そうとは思えなかった。
 抱き締める少年の髪の香りを恍惚と味わっていると、眠る前に起きたことが自然と思い出されてきた。
 クラウドは、相当疲れていたようだ。無理もない。あれだけの傷が残っていたということは、この数日間、彼は日常的に手酷く甚振られていたのだろう。
 それを思うとやはり苛立ちを感じたけれど、今こうして体を預けてくれている事実に至極安堵する。心がくすぐったくなってきて、ザックスは緩む頬を擦りたくなっていた。
 悪いことをしたとは思う。見せたくなかったものを暴き、言いたくなかったことを言わせた。プライドの高いクラウドのためを思うなら、気づかぬ振りをしていた方が優しさだったのかもしれない。
 けれど、ザックスにはできなかった。だってザックスは、クラウドに幸せになって欲しかったのだ。
 はにかむように、花びらが萌えるように、なんの不安もてらいもなく笑う姿を見ていたかった。それが自分に向けられたものでも、自分が理由でなかったとしても。それがただの我儘で、傲慢ですらあったとしても。
「──……、ん……」
 ちく、とどこかが痛んだ気がして、ザックスはぶるりと身じろいだ。それはただの錯覚だ。先刻拉いだ心のどこかが軋みを残していただけだ。
 ふう、と息をつきながら、ザックスはそっと目を開けた。部屋の窓から月明かりが射しこんで、空いたベッドに吸いこまれていく様子をぼうっと見守っていると、相手に添えた指先を動かしたくなってくる。
 このまま強く抱き寄せてしまえたら、なにかが変わるのだろうか。抱き締めるだけじゃなく触れて重ねて味わったら、一体なにが変わるだろう。
 二人の関係だけじゃなく、相手の気持ち、自分の正義──。そうなったとき、自分は自分を許せるだろうか。
 それを考えると怖気が走って、ザックスは思わず背中を丸め、息を詰めて奥歯をぎゅっと噛み締めた。
「………っ、ふ………」
 しばらくそうして耐えていると、邪魔だった衝動はいつの間にか薄れていった。体に違和感が無くなった頃、ザックスは、ほう、とため息を吐いた。
 ザックスの努力に気づくこともなく、クラウドはまだ無防備なままザックスの腕の中にいた。ありがたいようで、恨めしくもある。奥歯を解いたザックスはぴくりと頬を引き攣らせた。
 愛情とは、もっと優しいものだとザックスは思っていた。自分の中にあんな凶悪な感情があったなんて知りたくなかった。
 クラウドの都合や気持ちを無視しても、クラウドを手に入れようとした。相手の弱みにつけこんで、無理やりに体を繋げて──そんなのは間違っている。そんなことしたら、ミッドガルで彼を犯した他の奴らと同じじゃないか。
 クラウドが止めてくれなければ、間違えてしまうところだった。奴らやセフィロスがしたように、クラウドを苛んで傷つけてしまうところだった。
 なにもなくて良かったとは思うけれど、心のどこかが寂しがって残念に思ったりもする。
 クラウドの信頼がなかったら、ザックスはもっと卑怯な男になれたはずだ。そうして得られたかもしれない快感と充足を欲しがって、ザックスの喉がひくんと動き、乾いた息を吐き出した。
「──……ぅん……」
 クラウドの肩がぴくんと動いて、ザックスの心臓が飛び跳ねた。自分の考えていたことが伝わってしまったのではないかと、あり得ない想像をしてザックスは慌てて顔を起こした。
「………ックス………?」
 クラウドは眠そうに目を開けた。どきりと高鳴る心臓を呑みこむと、ザックスは暗がりでもわかるようににっこりと笑みを浮かべた。
「起きたのか」
「……ごめん、俺……寝てた……?」
 クラウドが頭を起こし、目を瞬かせて状況を探ろうとしている。名残惜しくはあったけれど、もう十分でもあった。これ以上傍に居ては、またいつあの恐ろしいほどの情欲に襲われるともわからないから。
「そんだけ疲れてたんだろ」
「起こしてくれたら良かったのに……」
 腕の重みがなくなって、ザックスは体を起こした。ずっと横向きでいたからか、頭が少し重い気がした。
 片手で髪を掻いていると、ベッドを押すようにしてクラウドも起き上がった。指を、きゅ、と丸めると、皺の出来たシーツの上でザックスは笑って言った。
「いいよ、寝ろって言ったの俺だったし」
 本当は手を伸ばしたかった。くしゃくしゃになった少年の髪を撫でてやりたかった。
 右手をぎゅっと握り締めて、ザックスはクラウドの意識が晴れるまで待った。眠そうだった目を開けて、ぱっちりとした瞳で見上げてくるクラウドを見下ろして、ザックスは喜びと安らぎと幸福を同時に味わっていた。
「飯、食うか」
 モバイルを開いてみると、ザックスの待ち受け画面には日付境界線に近い数字が表示されていた。
 こんな田舎でこの時間までやっている店はない。けれどクラウドと一緒にいて、ザックスにはもうなにも恐れるようなものはなかった。
「うん」
 服を直して、クラウドはしっかりと頷いた。クラウドが靴紐を結ぶのを待ってから、ザックスは友を連れて部屋を出て、階段を静かに降りると宿の外へと歩きだした。
 夜はしっとりと世界を抱き留めていて、涼しい空気が出てきた二人を迎え入れた。あんまり静かだったからなんだか気持ちがワクワクして、ザックスがニヤけた顔でクラウドを見てみると、彼も同じだったようで口唇をムズつかせていた。
 予想通り店はどこも閉まっていて、空腹を持て余していた若者たちは途方に暮れた。駄目元で広場に戻ってみると、クラウドの実家にはまだ灯りがついていて、二人は顔を見合わせると家に近づき、静かにドアをノックした。
 驚いたことに、クラウドの母親はまだ起きていた。食事がまだなのだと言うと、彼女は『仕方がないねえ』と破顔して、そのままキッチンへと向かい、残っていたカレーの鍋を温め始めた。
 テーブルにつき、食欲をそそる香りに鼻を鳴らして、ザックスは考えた。
 鍋いっぱいのカレーなんて、一人暮らしの女性が食べきれる量ではない。きっと彼女は、いつ息子が頼ってきてもいいように予め用意をしていたのだ。
 村には帰ってきたくせに、いつ立ち寄るとも飯が要るかも息子は彼女に伝えない。にも関わらず彼女はろくに文句も言わずに、よく熟れたカレーライスを皿いっぱいに盛りつけた。
「いっただっきまーす!」
「はい、召し上がれ」
 温かいカレーは野菜たっぷりで、肉もよく煮えて柔らかだった。ふんわりとしたご飯と一緒に頬張って、はふはふと頬を膨らませながら、ザックスはちらりとクラウドの様子を窺った。
 クラウドには、用意されていた食事の意味も彼女が起きていた理由もわかっているようだった。だから恐縮して、けれど家族だから素直にお礼を言えないでいる。
 その分ザックスは饒舌になって、素直な感想を口にした。
「うんまい! 良かった、腹空かせてて」
「そうかい、お口に合ってなによりだよ」
 そう言って笑顔を見せると、彼女は部屋の隅っこから小さな丸椅子を持ってきた。そんなに広くない家のテーブルを囲んで、美味い食事にありつきながら、ザックスは恐れも不安もなにひとつ残っていないことに気がついた。
 やはり、空腹は最強にして最大の敵だと思う。魔晄を浴びて肉体が強化されたとはいえ、腹が減っては精神の方が参ってしまう。
 セフィロスがその敵に脅かされてなければいい。彼はザックスの苛立ちの根源ではあったけれど、そんな彼を気遣うことはザックスにとって不思議ではなかった。
「……母さん、これまだ残ってる?」
 食事の手を止めて、クラウドは尋ねた。彼の皿には食べかけのカレーがまだこんもりと残っていた。
「やだねえ、行儀が悪くて。お代わりなら全部食べてからにしな」
「俺じゃなくて、セフィロスに……」
 意外な名前を聞いて、ザックスは目を丸くした。
 意外、というのは正しくはない。ザックスもつい今しがたセフィロスを気にしたばかりだ。
 だからザックスにとってこれは嬉しい偶然で、ザックスはそのことに驚いたのだ。クラウドがセフィロスの身を案じている──、彼がセフィロスを憎んでいないことを実感し、自分が喜びを感じたから。
「英雄さんのもいるのかい? じゃあまた、後で用意しておこうかね」
 クラウドの母親はくすぐったそうな笑みを浮かべた。クラウドが自分から友人のことを口にしたからだろう。
 相手が天下の英雄だという舞い上がりは感じられなかった。彼女は息子の性格を熟知していて、だからこそクラウドも恥ずかしがってしまったようで、彼は俯き、付け加えるように呟いた。
「温めるだけなら、俺にもできるから。連れてきて、食べてもらおうと思って」
 クラウドは、寝る前に言ったザックスの言葉を覚えていた。最初は嫌がっていたのに、ザックスと話した後気が変わったのだろうか。
 だとすれば嬉しくて、ザックスの悲嘆も労苦も報われたような気持ちになって、ザックスの口の中でカレーがさらに美味くなった。
「英雄さんが来るなら、掃除しておかないと」
「いいよ、何時になるかわからないから、母さんはもう寝てて」
 楽しげに笑う母親の呟きに、クラウドは慌てたように首を振った。すでに十分夜中ではあるのだから、これ以上彼女に負担はかけられない。
「でも、必ず連れてくるから」
 スプーンを握るクラウドの手に、静かな力がこめられていた。だから大丈夫だ、と、ザックスは思った。
 クラウドの気持ちも、ザックスの気持ちも、きっとセフィロスに通じるだろう。だってこんなに素直に健気に彼を想っているのだから。
 セフィロスは決して非情な男ではないはずだ。確かに不器用ではあるけれど、彼は沈着冷静で、その頭脳はザックスよりも明晰だ。
 だからザックスは、悲観していなかった。腹を満たす美味い食事も、ザックスに勇気を与えてくれていた。
 一皿分をしっかりご馳走になって、二人は静かに神羅屋敷へと出かけて行った。腹が膨れたせいか、香辛料で体が火照っていたせいか、夜風はさっきまでよりも涼しく、爽やかに感じられた。
「心配するな。俺がついてる」
 屋敷へ向かう道すがら、ザックスは言った。体力も精神力も回復して、無敵にでもなれたかのような心地だった。
「文句言うようなら、俺が一発ぶん殴ってやるよ」
 右手で拳を作って、ザックスは空気をパンチして見せた。もちろん、暴力に訴える気はなかったけれど、遅いディナーで蓄えた勇気と気持ちを少しでも保たせておきたかった。
「そのことなんだけど……」
 気まずそうな顔をして、クラウドが呟いた。せっかく晴れやかだった心に俄かに雲が広がっていく。
「俺が、セフィロスと話してみるから。ザックスは、外で待っててくれないか」
 ザックスの反応を窺うように、クラウドはゆっくりと振り向いた。ザックスに拒まれないように、慎重そうに言葉を選んでいたようだった。
 決死の覚悟で必死に嘆願する少年への、ザックスの答えは決まっていた。
「いやだね」
「ザックス!?」
 クラウドは眉を伏せて、困ったように口唇を震わせた。可哀想だとも思わずに、ザックスは前を向いたまま大股で歩き続けた。
「もう、十分待っただろ。俺だけ待ちぼうけはごめんだ」
 元々ザックスは、堪え性のある方ではない。干されてのけ者にされるくらいなら、渦中に身を置いて巻きこまれていたい方だ。
「友達が怪我させられてるんだぞ。我慢できるか。それに──」
 少しだけ躊躇って、ザックスは歩みを緩めた。宵闇に重く聳える洋館がどんどん近くなってきていた。
「あいつだって、俺の友達なんだよ」
 それを口にすると、今まで閊えていたものがなくなってスッキリしたような気がした。だからこそこれまで苦しんで、歯痒い思いをしていたのだとザックスは痛感した。
 セフィロスは友達なのに、どうして恨んだり憎く思わねばならなかったのか。彼はわざとそう思われるよう振舞っていた気もするし、ザックスもついついそれに乗せられてしまったようだ。
 友達だから心配で、友達だから力になりたい。その気持ちはクラウドだけでなく、セフィロスにだって通じていたのに。
 なんだか胸が軽くなって、呼吸も緩んだようだった。けれどクラウドは対照的に俯いてしまって、口唇を噛み締めて眉を捻じ曲げていた。
 きっと、聞かれたくない話もあるんだろうと思った。人と人との絆とは、安易に踏み荒らしていいものではない。
 ザックスもそうなのだから、クラウドだってきっとそうだ。そう考えたザックスは神羅屋敷の門の前で立ち止まると、はぁ、と大きく嘆息した。
「……わかった。十分だけな」
「そんなに短く?」
 眉をハの字にしたまま、クラウドはパッと顔を上げた。ザックスは苦笑しながら、少年の鼻先に指をつきつけた。
「二階で待ってるから。十分経ってお前が帰ってこなかったら、俺も行く。それでいいな?」
 クラウドはウッと声を詰まらせて、ザックスの指先と顔とを交互に見つめていた。それを見下ろしていると、なんだか少しだけ譲歩してやりたくなる。
 二十分、いや、三十分──やっぱりダメだ。クラウドを散々に痛めつけたセフィロスが、今夜は暴力を揮わない保証なんてどこにもない。
 信じてはいたかったけれど、可能性は否めなかった。だからザックスは互いの不安を消し去ろうとして、明るく朗らかに振る舞った。
「心配するな。大丈夫だって」
 クラウドの左肩を掴んで、ザックスは、に、と笑みを浮かべて見せた。それを見上げるクラウドの口隅が僅かばかり綻んだ。ぴくんと震えただけの歪な笑みだったけれど、少年の小さな変化はザックスの胸の暗雲を簡単に消し去ってしまった。
「行くぞ、クラウド」
 門を、ギィ、と押し開けると、夜に抱かれた神羅屋敷にザックスは踏みこんだ。クラウドがそれに続いて、二人は雑草の生い茂った広い前庭を歩いていく。
 若い二人の選択が間違いだったと、誰が言えるだろうか。懸命に生きる人の生に間違いなどあるはずはなく、だとすれば全てのことは偶然ではなく必然だ。
 だからこそ、誰もこの後に起こる悲劇を変えられない。当事者になる者たちを窘めることもできないはずだ。
 既に訪れている危機は、運命だと言っても過言ではないだろう。宿命は今まさに、若者たちを残酷に冷酷に呑みこもうとしていた。