無冠の帝王<03>
セフィロスがゆっくり構えを解くと、暗がりの中でギラついた刃がこちらを威圧していた。たった一撃でこれだったのだ、これからまともにやりあったとして、手許の得物が耐えられるかは心許ない。
しかしセフィロスは、切羽詰まった状況において高揚を感じ始めていた。本気を出せるかもしれないと思うと、口隅の笑みが勝手に深くなる。
「お前を連れて来いと言われている」
セフィロスは剣を掲げ、低い声を響かせた。
神々しいほどの威圧を前にしても、決して臆することはなかった。抜き身の刀と戦うなど初めてだ。それがまたセフィロスの血腥い闘争欲を掻き立てる。
「人間ごときに、わしを捕えられはせぬ」
笑うような震動が空気を揺るがしたかと思うと、頭上からパラパラと石の粉が降ってきた。見詰めている刀身の付け根から切っ先へと妖しい光が煌めいて、ゾッとするほどの美しさにセフィロスは目を細めた。
「刀ごときが、生意気な口を叩くものだ」
深まる笑みを湛えたまま、セフィロスは挑発的な科白を吐いた。せっかく全力で戦えそうな相手に出会えたのだ、相手に力を加減されては面白くない。
「神をも恐れぬ愚か者め。お前を殺すのはわしではない、分を弁えぬ貴様自身だ」
どうやらセフィロスの試みは成功したようだった。ギラついた刃が更に眩い光を放ち、控えめだった声が洞の中で轟き始める。
「己が恐怖に狂い、無様に朽ち果てるが良い」
幕前の口上ならもう十分だ。後はただ、本能に逆らわず欲求を満たすのみ。
俺を侮ったことを、後悔させてやろう。そう思えるだけの自信があって、それはセフィロスを慢心させた。
セフィロスは左手に剣を握り、右掌に魔力を集めた。そうして地面を蹴り出すと、捕獲対象との間合いを一気に詰めようとした。
と同時、地中深くに広がる洞に、鋭い光が突き抜けてセフィロスの目を眩ませた。セフィロスは反射的に素早く瞼を動かした。それは一瞬の瞬きのはずだった。だからセフィロスは、再び目を開けた時自身の混乱を疑った。
開けたはずの瞼は、未だ閉じているのではないだろうか。でなければ、なにも見えないこの状況をどう理解すればよいのか。たった一瞬で別の空間へと転移させられたとでもいうのか。あの光が強力な魔力の発動ならば、有り得ない話じゃない。
どちらにせよ、先手を取られたという感覚は拭えなかった。息苦しいほど濃密な暗闇に囚われて、セフィロスは相手の姿を見失った。セフィロスは悔しさを噛み潰すと、神経を研ぎ澄ませ気配を探ろうとした。
暗くて深い深淵が、あたりをすっかり埋め尽くしている。空間に黒色が充満していて、目を瞑っていた方がきっとまだ明るいはずだ。
セフィロスは剣を構えたまま、瞳を忙しく動かしていた。しかし、黒に紛れた相手の姿は見あたらず、もはや声も聞こえない。
セフィロスは舌を打つと、相手のいたはずの位置まで動いた。剣を揮っても裂けるのは空気ばかりで、全く手ごたえがない。
「隠れていないで、姿を見せろ」
セフィロスは苛立って、闇の中で声を発した。キンと冷えた空気にそれが伝わり、遠くへと広がっていく。
セフィロスはそれを不審に思い、眉間の皺を深くした。
閉ざされた場所にいたはずなのに、発した声は無限の広がりに吸収される。どこかにぶつかり反響することもなく、声であったことも忘れて無音に溶けて吸いこまれていく。
「卑怯者め、逃げるのか」
嘲るように尋ねたけれど、相手は挑発に乗ってこない。セフィロスは再び、周りの広さと静けさとを痛感させられることになった。
剣を持つ掌で、セフィロスは焦りを握り潰した。せっかくここまでやって来たのだ、このままおめおめと引き下がるわけにはいかない。
すう、と、セフィロスは長い息を吸いこんだ。そのまま深く吐き出すと、彼はその掌に再び炎を生み出した。
ここは、岩壁に囲まれた自然の要塞だったはずだ。ならばこの静寂と感じる広さはどういうわけだ。
幻覚なのか現実なのかを確かめようと、セフィロスは腕を持ち上げると掌で育てたファイガを真っ直ぐ前へと解き放った。
弾き出された魔法は、ごうごうと燃えながら一心不乱に直進していく。壁があったはずの場所を通過して、両手ほどの大きさのものがどんどん小さくなっていく。
セフィロスは眉を寄せ、火の塊が見えなくなるまでずっとそれを見詰めていた。やはり変だ。広い場所にいるのは分かった、しかし、ならばここはどこだと言うのだ。
前へ放ったのと同じように、今度は左右へ、後ろへ、上へもファイガを飛ばす。けれどやはり、それらはなににぶつかることもなく、真っ暗な闇の中へと吸いこまれて消えてしまう。
徒労で終わったことを知り、セフィロスは嘆息した。その隙に襲われるかもしれない、と、疑念が過ぎらないではなかったけれど、あれだけの大口を叩いた相手はやはりそんな姑息な真似はしなかった。
炎で周りを照らしたところでなにもないのだから意味がない。闇に目を慣らすことも必要だろうと考えて、セフィロスが右手を伏せると、指に絡んだ火の粉が溶けた。
そうしてセフィロスは、剣を手に持ったままゆったりと歩き始めた。
きっとここは現実にあるどこかではないのだろう。上下左右になにもないなど現実には有り得ない。
ならばきっと、ここは奴の築いた幻覚の中であるはずだ。どれだけの魔力の持ち主だろうと、際限のない空間をいつまでも持続してはいられない。
きっとどこかに綻びがある、そしてそこを突かない手はない。熱烈な戦闘を期待したのに余計な時間を食わされるのは癪ではあったが、セフィロスは再び感覚を研ぎ澄ませ、ゆっくり歩みを進めながら周囲へ意識を張り巡らせた。
つくづく、静かな場所だった。音もなければ風もなく、自身の奏でる靴音がかえって耳に痛いほどだ。
敵の姿は見当たらず、闇に紛れて襲い掛かってくる気配もない。セフィロスは確かに相手を牽制していたけれど、思考の方は勝手に働き、回想と検討を開始していた。
まさか、宝条の言う剣が実在するとは思わなかった。しかも人語を解するなんて、不思議なこともあるものだ。
あれはモンスターの類だろうか、それとも伝説にあった通り、神の力があれに宿っていると言うのか。
ばかばかしい。セフィロスはため息に乗せて自分の愚考を吐き捨てた。
闇に紛れて逃げ隠れするような輩に、そんな大層な力が備わっていてたまるものか。今度見つけたら、必ず捕まえてやる。
とはいえこんな闇の中で、たった一振りの刀を見つけることなどできるだろうか。前を向いても横を向いても黒いばかりで、自分が真っ直ぐ歩けているかも確かでない。
これは一体なんなのか──。それを考えようとしたセフィロスは、ふと奴の言った最後の言葉を思い出した。
奴は確かに、『己が恐怖に狂え』と言った。宝条に聞いた詩にも、『それを手に入れようとする者には自身の最も恐れるものが立ちはだかる』と織りこまれている。
「──これが、俺の恐怖だと?」
そう呟いて、セフィロスは口許を引きつらせた。
なにも見えないほどの真っ暗な闇、そんなものは『恐怖』とはほど遠い。現に自分は、斯様な状況に至ってもなんら臆することもなくここまで進んできたじゃないか。
闇でなければ、ここに在るのは一体なんだ。いや、ここにはなにも無い。光も音も消え去った空間には、時間すら存在するか怪しいものだ。
そう考えたセフィロスの脳裏に、ふ、と、とりとめもない思考が過る。それは決して重要でない、安直な思いつきではあったけれど、その影響は甚大で、彼は無意識の内に歩む足を止めていた。
今、自分はなにに気づいたのだろう。確かめることを避けようとしたセフィロスは、しかしなにかから逃れるという不名誉など承服できず、それを直視しようとしてごくりと息を呑みこんだ。
ここには、なにも無いのではない。無が充満しているだけだ。ここには、なにも無いのではない。自分だけが存在している。
この状況を表現する、わかりやすい言葉がある。圧倒的かつ絶対的な『孤独』であるという以外に、一体なんと言えばいいのか。
ぞく、と、セフィロスはここに来て初めて背筋に走る悪寒を感じた。胸はどくんと高鳴って、腹の底からなにやら重苦しい感情が渦を巻きながら広がっていく。
足を止めた靴の裏から冷たさが伝わってきて、にも関わらず剣を握る掌にじっとりと汗を感じている。これはなんだ、動揺か、困惑か──、いや、それよりもっと陰湿なモノだ。
セフィロスは今、きっと初めて『恐怖』という感情に直面していて、それがセフィロスの一挙一動を束縛し、これまでにない戦慄を味わわせていた。
「──……ふ……」
セフィロスは両手を下ろし、目を閉じると、ゆっくりと深い息をついた。いつ敵に襲われるかも知れない場所では愚行ではあっただろうが、既に相手の術中ならば警戒など不毛なことだ。
セフィロスは俯くと、ぎゅ、と口唇を噛み締めた。
外ではなく自分の内側に意識を向けると、わざわざ探すまでもなく違和感はすぐに見つかった。鳩尾のあたりが重たくて、神経が冷たさを伝達するのに速る鼓動が血流を亢進させる。
無性に体を動かしたくて、けれど決して動かせない。靴の中で足の指を地面へと食いこませ、強く握りしめた手が震えるのを堪えている。
感じている不快さは全身へと広がっていて、この侵蝕がセフィロスの戦闘力を凋落させることは明らかだ。そんなこと、今更どうして気にする必要があるだろう。ここには戦う相手も、戦えと命じる者もいないというのに。
ぴくん、と、セフィロスの口唇が小さく震えた。歪な変化は笑みの形をセフィロスに思い出させ、それがなんだか可笑しくて口唇を閉じていられなくなる。
自分が望んでいた自由は、こんなところにあったのか。狭苦しいポッドの中で、重苦しいミッドガルの片隅で欲していたものは、なんてことはない、他者を廃絶することでのみ得られるものだったのか。
いや、こんな孤独(モノ)は望んでいない。俺が求めていたのは、ありとあらゆる可能性だ。
なにを選ぶのも拒むのも自分の好きにしていたい。強要されず縛られず、奔放であることだ。
しかしこれでは、なにも出来ない。孤独であるとは、独りでいるとは、なんと心許ないことなのか。
自分の欲していたものは、他者の存在無くしては得られないものなのか。他者を厭い、蔑んで、遠ざけてきたというのに、たった独りでいることがこんなにも恐ろしいとは。
「違う」
思わず零した呟きは、セフィロスに声を出すことを思い出させた。次いでセフィロスは、自分の握っていた武器の使い方を思い出す。
「俺はなにも恐れてなどいない」
そう言って、セフィロスはその剣で空を割いた。そのまま息が切れるまで闇を斬り捨て、自分の力を鼓舞するように剣戟を披露する。
けれど、誰も見てはいない。当たり前だ、ここにはセフィロス以外、なにも存在しないのだから。そんな事実を突きつけられまいとして、セフィロスは余計に乱雑に剣を揮った。
「く──ッ、は……!!」
闇雲な攻撃はなにも産まず、傷つけもしない。それが余計に腹立たしくて夢中で剣を振り下ろすと、ガキンと硬い地面を斬りつけ、振動がセフィロスの手を痛ませた。
「は……、は……」
荒い息を散らしながら、セフィロスはぎりりと奥歯を噛み締めた。
これでは、癇癪を起こす子供と同じだ。なにをしても無駄だと知って、それはセフィロスに苛立ち以上の怒りと落胆を感じさせた。
セフィロスが踏みしめているものは、材質も性質も先刻までの地面とはまったく異なっている。渾身の攻撃でも傷つかず、硬質な暗闇が凝縮してできている。
孤独はまさしく縦横無尽に広がっていて、セフィロスを静かに確かに追い詰めていた。実態のないものとどうやって戦えというのか。セフィロスは悔しさを噛み締めたまま、その場に剣を突き立てて、ずるりと片膝を落とした。
息はまだ上ずっていて、しばらく整いそうにない。逆手に剣を掴んだまま喉を鳴らすと、じんわりと落ちていく唾液が不快さを宥めていった。
相手がモノであったなら、如何ようにも戦える。そして決して負けはしない自信と確信を持っていた。
孤独とは概念だ。現実には存在し得ないものだ。
孤独に打ち克つ、どうやって──。たった独りで、どうして孤独でなくなるというのだろう。
セフィロスは、自分の思考が軟弱な傾向に振れていると感じていた。そしてそれがひどく忌まわしく、疎ましいとも思っていた。
自分が非力だと、卑小だと感じることなどこれまで無かった。俺は他の奴らとは違う。俺は特別な存在なんだと思っていた。
そんな俺が、こんな思いをするなんて。自分でない誰かの手を借りなければならない、ならば誰に頼ればいいのか。
惰弱な思考を自嘲したセフィロスは、地面に膝をついたままくつりと笑みの音を零した。