歌
「え?」
ティファが声を出すと、驚いたようにクラウドも顔を上げた。
夜も更け、静かになったセブンスヘブンで二人の視線が繋がった。成人男性にしては大きな薄い色の瞳が『どうした?』と言っているような気がしてティファは洗い物の手を止めた。
「今、歌ってた?」
「歌?」
カウンターを挟んで、ティファとクラウドは向かい合っていた。クラウドは今日の分の伝票をノートに転記する作業をしていて、ティファも今日の分の片付けを終え、明日の分の仕込みを始めようとしていたところだった。
「聞こえなかった」
客の帰った店内を見渡して、クラウドは言った。こんな夜分に歌が聞こえたというティファの言葉を訝しんでいるようだった。
「そうじゃないの」
シンクの下にかけてあったタオルで手を拭き、ティファは少し考えた。無自覚だったなら、指摘しないでいた方が良かったろうか。とは思ったけれど、今更口にしたことを撤回しては余計に悩ませてしまう気がする。
「クラウドが、歌っていたような気がして」
ティファはそう言うと、ちら、とクラウドの様子を窺った。彼はやはり自分で気づいていなかったようで、前髪の隙間から瞠目した瞳でティファを見つめていた。
つい先刻まで、洗った皿をすすぎながら、ティファはしばらくクラウドの奏でる旋律に耳を傾けていた。あまりに優しいメロディ、声音だったから、静かな店に響くそれに違和感を覚えなかった。
けれどよくよく考えてみれば、クラウドが鼻唄を口ずさむなど珍しい。少なくとも二人がこれまで一緒にいた中で聞いたことはなかった気がする。
だから思わず、動揺と喜びが声に出てしまった。何も言わなければもう少し聞いて要られたかもしれないのに。そう思うと残念な気持ちになって、ティファは首を傾げて苦笑した。
「……ティファに、言ってなかったことがあるんだ」
急に神妙な面持ちになって、クラウドが視線を逸らした。不快にさせたかと不安になったところだったから、ティファはクラウドの言葉に驚き、慌てて自分の態度を切り替えた。
「どうしたの?」
聞く体制を作ると、カウンターの中に立ったままティファは訊ねた。マリンとデンゼルが寝み、客のいなくなった店内は静かで、二人の会話を邪魔する者はいなかった。
「……怒らせるかも、しれないんだけど」
歯切れの悪い口振りだった。早く聞かせて欲しいような、聞かない方が良いのではと不安を覚えるような、焦れったい気持ちがティファの胸に広がっていく。
「最近、思うんだ。俺は……幸せかもしれない」
右手に握ったペンを見つめて、クラウドは呟いた。立派な大人、逞しい青年の口からこぼれてきたのは、先刻聴いた鼻唄よりも可愛らしい呟きだった。
思わずティファの胸が華やぎ、硬直していた頰が和らいでしまうほど。堪えられずに、ふふ、と笑みを鳴らしながらティファは訊ねた。
「どうしたの、急に」
笑ってしまっては申し訳ない、気を悪くさせるかも、もう言わなくなってしまうかもしれない。
クラウドなら有り得る話だ。けれど我慢できなかった。
綺麗になったシンクに手をつき、ティファはクラウドを見つめていた。握った手の中でくるりとペンを持つ一度回して、クラウドは眉を寄せた。
「──別に。ただ、そう思ったんだ」
バツが悪そうにクラウドは言った。大きな進歩だとティファは思った。
幸せになることを怖がって、普通に生きること、戦い続けること、そのどちらも恐れていた青年が、思わず鼻唄を口ずさんでしまえるようになったのだ。しかも、理由も意味も彼はちゃんと自覚している。
一日の終わりに、こんな素敵なことがあって良いのだろうか。明日の仕込みのことなど忘れてティファは微笑った口唇で訊いた。
「どうして怒ると思ったの?」
星痕の消えた彼の腕には、仲間と揃いのピンクのリボンが結ばれている。表情を隠すように左手で口許を覆うと、クラウドの淡い視線がそっとティファに差し出されてきた。
「今更って、言われるかなって」
クラウドが自覚している通り、彼がティファを怒らせることは少なくなかった。多くの場合言葉不足からくるすれ違いが原因なのだが、その都度やきもきさせられたし、悲しい気持ちになったことだってある、でも。
「怒らないわよ」
ティファの声が優しかったのは、クラウドを慰めようとしたからでも、子供扱いしていたからでもなかった。嬉しくて、切なくて、泣き出しそうなほどの喜びがティファの声を震わせた。
「私も、幸せだから」
泣いちゃダメ、泣いたらもう言ってくれない。どうした、と心配して、混乱させて困ってしまう。
だからティファは笑って言った。目の奥にツンと感じる刺激をなんとかやり過ごして。
明日もきっと忙しくなる。目まぐるしく世界は変わる。そして少しずつ、自分たちも変わっていくのだろうと思った。願わくば彼の鼻唄の聞こえる距離にずっといられますように。私の笑みの届く近さにずっといてくれますように。