軌跡<07>
彼がその部屋に戻ったのは、いつぶりのことだったろうか。滅多に帰ってこないこの部屋の主は、今宵は更に珍しく、一人ではないようだ。
ソルジャークラス1stは、専用の居住スペースとしてフロアを一つ与えられていた。扉を開けて広がるフロアには、本棚とクローゼットが備え付けられている。あとは長いソファーと低いテーブル、ベッドの傍らにテーブル代わりのチェストがあるだけで、あとは体を休める大きな寝台があれば、セフィロスにとっては十分だった。
肩に担いでいた少年の背を支えて、寝台へとゆっくり下ろす。トサリとシーツに身を沈める少年は思ったよりも安らかな顔をしていて、セフィロスは小さく嘆息した。
実験だと、宝条は言っていた。一体何をしたのだろうか。
それははかり知り得ないことではあったが、とりあえず彼が無事でいる。それだけで十分だった。
クラウドを、科学者どもの手には渡したくなかった。あの二人のように、なって欲しくはなかった。
固く縛られた靴紐を解くと、脱がせた靴をベッド脇に揃える。コートの内側に締まっていた鍵を取り出して、セフィロスはクラウドの傍らに腰を下ろす。
手首を繋ぐ鋼鉄の拘束具に擦れて、赤く擦れて軽く皮が剥けている。痛々しいその様子に、少しばかり胸が苦しくなった。
卑しい笑みを浮かべる宝条の顔がちらついて、セフィロスは不快そうに眉を寄せた。刺激を与えぬようにそっと鉄輪を取り除くと、緩く掌を重ねて、セフィロスは目を閉じた。
呼び出した魔法は繋ぐ腕からクラウドへと伝って、柔らかく彼を包みこむ。優しい温もりが閉じた瞼の先にポウッと光る。その眩しさが消えたのを見計らって、再び目を開いたセフィロスの見下ろす場所に、もはや先ほどまで赤みを滲ませていた傷口はなかった。
カシャリと音を立てて、セフィロスは役目を終えた拘束具を持って立ち上がった。クラウドの肩にかけていただけの軍服を拾い、背凭れの広いソファーにそれを広げ掛ける。コートを留めるベルトを外すと、その隣に投げ捨てた。
部屋の主は悠々とフローリングを闊歩する。
キッチンに備えられた冷蔵庫は空で、製氷機に大粒の氷が転がるだけだ。洗い晒しのグラスを掴むと、氷を一つだけその中に掬う。
いつだったか、ジェネシスの置いていった酒瓶を取り出すと、分厚いグラスにそれを注ぎこんだ。微かに黄色みがかった透明な酒は、仄かに林檎の香りがする。用意を終えると、セフィロスはグラスを片手に再び寝台の方へと戻っていった。
少年が目を覚ます気配はない。ただ、先程の治癒魔法の効果あってか、その顔から疲労の色は消えていた。
傍らに腰を下ろして、珍しく酒に口をつける。口腔にじんわりと苦味が広がって、そして甘い芳香が鼻先まで突き抜けた。
グラスを傾け、セフィロスは再び喉を焼く。それはまるで禊のようだった。
セフィロスは、巣食う心の淀みを洗い流すために、酒を煽った。グラスを両手に包みこむと、氷がカランと踊る。隣で寝息をたてる少年を見下ろし、セフィロスはただ、それを眺めていた。
自分がどれだけ罪深い存在であるか、この少年は知らないだろう。自分の存在がどれだけ友を苦しめ、人に恐れられているかを、彼は知らない。
その鋭利に煌めく輝きに見つめられるのは、悪い気はしなかった。畏怖や、憎悪の瞳を向けられるよりは、心地いいとすら感じていた。会いたいと思ったのは、そんな理由だったかもしれない。
グラスを掴む指先をそっと伸ばすと、少年の額を隠す前髪に触れた。
す、と指を滑らせると、細い金髪はさらりと少年の頬を流れる。その表情はあどけなく、未だ幼さを残してはいる。初めて会ったあの時、儚いと感じた印象は、今こうして横たわる彼にそのまま備わっていた。
「………ばかばかしい」
宝条の研究室を後にして、初めてセフィロスは口を開いた。酒に濡れて潤んだ口唇から零れたのは、自嘲の言葉だった。
触れていた指を引いて、再び酒を煽ると、セフィロスはおもむろに立ち上がる。意味の無い愚行を恥じて、微かに触れた指先を強く握り締めた。
腰を下ろしていたシーツが皺を作っている。その上に横たわる少年の胸元まで布団をかけてやると、グラスを持ったままソファへと向かった。
傍らのテーブルにグラスを置いて、セフィロスはソファにその身を横たえ、瞳を閉じた。戦地に赴くことの多いセフィロスは、自らの意思で瞬時に眠れる術を習得していた。指先に残る感触を思い出してしまわぬように、セフィロスは浅い眠りに就いた。
■ ■ ■
薄く霞む意識の中、一人の女性のすすり泣く声が聞こえた。
長い前髪に、白衣を羽織り、床に膝をつく。両手で覆われた顔は、見ることはできなかった。嗚咽を漏らさぬように懸命に息を殺しながら、彼女は泣いていた。
セフィロスは手を伸ばそうとした。それは、幼い頃の記憶だ。小さな掌は彼女には届かなかった。
【ミッドガルに連れて行く】
【やめて、宝条! その子を連れて行かないで…!】
【おや? 今更母親ぶるのか? 自分がなにをしたのか、わかってるんだろうな?】
【……っ、……お願い…その子を、連れていかないで…】
宝条の笑い声が、頭に不快に響いた。未だ幼い自分には、どうすることもできなかった。
ぐらりと世界が揺れる。連れて行かれたのは、無数の機械が犇き、本棚にあふれる書物の散乱する場所だった。
理由もわからずに泣いている自分に、白衣を着た痩せた男が話しかけてきた。
【さあ、泣かないで。ワタシが今日から君の面倒をみることになった】
彼は床に膝をつき、知らない場所に連れてこられて、不安に涙を止められずにいる自分へと、白いハンカチを差し出してくれた。
【大丈夫。なにも心配いらないよ】
顔を背けて彼から逃れようとする自分の頭をそっと撫でて、見上げたセフィロスの目許にそっとハンカチを当ててくれた。
眼鏡の向こうで優しそうに眼を細めて、彼は笑う。母を探して諸手を振るう自分に、彼は困ったように視線を伏せた。
泣きじゃくる子供を前にして、彼は言った。
【君の、お母さんは……】
■ ■ ■
「…ガスト、博士……」
それは、とうに忘れてしまった、けれど今でも思い出せる、はるか昔の霞む記憶。セフィロスを夢から呼び覚ましたのは、規則正しく鳴り響く機械的な電子音だった。
ピピピ、ピピピ、と、彼の眠りを妨げるコール音に、セフィロスは額に鈍く響くような頭痛を抱えたままの体を起こし、携帯を開いた。
『セフィロス?』
「……ザックス、か」
けたたましく鳴り響いた電話の向こうで、騒々しい声がする。その無事を知ると、セフィロスは自然と、口許を緩めた。
セフィロスの胸を締め付けていた不安など、やはり徒労だったのだと納得し、その愚考を自嘲する。顎に携帯を挟んだまま起き上がると、セフィロスはソファにかけていたコートを手に取り、袖を通した。
「その様子なら、無事なようだな。今どこにいる?」
『えーっと…多分、プレートの下』
「スラムか…」
『なあ、統括怒ってる?』
「…当分は、給料に響くだろうな」
『ちょっ、せっかく昇給したのに!?』
「それが嫌ならさっさと帰ってくればいい」
『それがさぁ…少しだけ、寄り道していいかな?』
「なにかあるのか?」
『いやぁ、その…』
語尾を濁らせるザックスの言葉は要領を得ない。その後ろで、華やかな女性の声がした。ザックスがあわてて黙るようにジェスチャーしている様子が、手に取るようにわかった。
コートの前のベルトをパチンと留めると、セフィロスはふ、と微笑んだ。英雄の笑みに驚いたようにザックスが声を詰まらせる。
「わかった。ラザードには俺から話しておく」
『え…マジで!?』
「耳元で叫ぶな」
『サンキューセフィロス!!』
それ以上叫ばれては堪らないと、セフィロスは強引に通話を切った。襟を整えて支度を終えると、先程までとは違って、驚くほど穏やかな気持ちになっている自分に気がついた。
携帯をコートに入れようと手を差し込むと、そこに畳まれた白いハンカチに指先が触れる。取り出すと、その元々の持ち主の眠る寝台のほうへと歩いていく。
彼は未だ穏やかに寝息を立てており、広いベッドで身動き一つせずに休んでいる。彼を起こさないようにと、静かに、枕元にハンカチを置いて、セフィロスは歩き出した。
【君のお母さんは、ジェノバ。我々の、最後の希望だ】
ガスト博士が、その時言った言葉。夢の最後に融けたその言葉が、セフィロスの耳に貼り付いていた。