軌跡<08>
ぼうっと天を仰ぐクラウドは、未だ身動きができなかった。ただ力の入らない体をシーツに横たえて、染み一つ無い天井を見上げていた。
うっすらと意識が晴れて、ようやく自分が眠ってしまっていたのだと気がついた。ここがどこなのか、ふとそのことに意識を向けると、クラウドは体を起こそうと頭を持ち上げた。
瞬間、くらくらと視界が霞んで、ズンと響くような重い頭痛に額を押さえる。何度か瞬きをすると、ようやく視界がはっきりしてくる。そこは、見たことのない部屋だった。
広いフロアにはシンプルな家具しか置かれていない。自分を乗せる寝台は兵舎の自室のそれとは比べ物にならないほど広く、かけられた布団も柔らかい。部屋の中央に置かれたソファに、自分のものと思われる軍の制服がかけてあった。
「ここは…」
呟くクラウドの声は掠れていた。
ベッドから降りようとシーツに手をつくと、そばに置かれた薄布に指先が触れた。それは、先日、自分が確かに彼に貸したもの。
はっとして、少年は顔を上げた。
「セフィロスの…部屋……?」
何故自分がそこにいるのかはわからない。記憶を辿ると、額が割れるほどの頭痛がクラウドを襲った。
痛む頭を押さえながらも、なんとか思い出そうとする。ジェネシス軍の侵攻を受けて迎撃した自分は、同輩のつまらない任務をおしつけられた。科学部門統括宝条へ荷物を届けた後、その実験のため、サンプルポッドに身を投じた。
その後のことが、どうしても思い出せない。思い出そうとするのを阻むかのように、疼く痛みがクラウドの脳に響く。なんとか立ち上がろうと、布団を捲って、ハンカチを握りしめたまま冷たいフローリングに足をつけた。
裸足の少年は、あたりを慎重に見回しながら部屋の中央へと進んでいく。人の気配はない。そして、見れば見るほど、閑散としたフロアには生活臭もない。
と、けたたましい携帯の呼び出し音が静かな部屋に響き、クラウドは思わずびくりと身を竦めた。ソファにかけられた自分の軍服のポケットを探ると、鳴り響く携帯の通話ボタンを押す。
『随分遅いお目覚めだな』
「セフィロス…!?」
携帯の向こうで、セフィロスが笑みを含んでいるのが判った。その言葉に、クラウドは自分の予想を確信する。ここはセフィロスの部屋なのだ、と。
「あの、何故、俺はここに…?」
『……昨夜、廊下で寝ているのを偶然見かけた。風邪でも引こうとしてたのか?』
「廊下で…?」
『お蔭で俺はソファで寝る羽目になった』
「あ……申し訳ありません」
語気に勢いを失う少年に、セフィロスは笑って続けた。
『それより、さっさと出社したほうがいいんじゃないのか?』
「……!?」
時計を探してあたりを見回すと、質素な壁掛け時計は既に朝の定時を回ろうとしている頃だった。神羅軍規定において、遅刻は絶対にありえない。
慌てる少年は軍服をひっつかんで乱暴にそれを羽織る。靴を探すとベッドの近くにそれは置いてあった。
首を傾けて、携帯を顎に挟んだまま支度をする少年の耳に、ふっと触れるような笑みが囁かれた。
『鍵はオートロックだ、気にしなくていい。急げよ。それじゃあ…』
「あ・あのっ、セフィロスッ」
『…なんだ?』
靴紐を結ぶ余裕も無く、部屋を飛び出すクラウドは、駆け足のままエレベーターホールへと向かう。切ろうとした電話を再び耳に当て、尋ねるセフィロスに答える。
「ありがとうございました、お礼は、必ず…!!」
『……さっさと行け』
切られた電話を掴んで、クラウドは走った。
何故自分はセフィロスの部屋にいたのだろうか。実験の結果はどうだったのだろう。様々判らないことは多かったが、焦るクラウドには、それら一つ一つの問いを吟味して考える余裕はなかった。
息を切らせてなんとか集合時間に間に合ったクラウドは、昨夜回収したはずの伝票を失くしてしまったことに気づき、こっぴどく叱られたという同僚の恨み節を聞く羽目になるのだった。
■ ■ ■
切れた電話をたたみ、ミッドガル噴水広場に立ち止まる。昨夜の襲撃から明けて間もないからか、八番街には常の活気はなかった。
「どうしたんだ、セフィロス」
後ろから声をかける男へと振り返ると、そこに立っていたのは顔見知りだった。
神羅カンパニー総務部調査課、通称タークス。黒いスーツに身を包み、項に髪を短く束ねた彼は、緩やかに近づいてくる。
「ツォン、か」
近づいてくる相手の名を呟くと、隣に立ち止まり、彼は続けて言った。
「なにかいいことでもあったのか?」
神羅の表の部分で刃を振るうソルジャーと、裏の部分で暗躍するタークスとは表裏一体だ。ミッションで何度か同行したこともある。
この男はタークスの中でも愚直なほどに任務に忠実で、それが故に同じ神羅の中では珍しく信頼を置く一人だった。そんな彼に、笑った顔を見せたのは初めてだったかもしれない。
ふ、と息を漏らして、軽く左右に首を振る。携帯をコートにおさめながら、セフィロスは尋ねる。
「別に、なんでもない。街の様子はどうだ?」
話ははぐらかされたが、それ以上を追求するような関係でもない。八番街で走り回る兵士の数は普段よりも多く、ツォンは彼らを眺めながら言った。
「市民への被害は最小限に抑えることができた。今は残党がいないか調査中だ」
「熱心なことだ。それで、どうしてお前はここにいる?」
「――アンジールを見かけた者がいる」
「成程」
セフィロスはわずかに口隅を吊り上げた。その変化を見止めて、ツォンは眉根を寄せる。
「…見つけ次第抹殺せよと、指令を受けた」
「たとえタークスでも敵わないだろう。俺が出る」
「上は知っているのか?」
突き刺すようにセフィロスを見つめて、彼は問う。昨日の襲撃の詳細を、ツォンは知っているのだろう。無言を返すセフィロスに、ツォンは続ける。
「……セフィロス。上は、君がジェネシスを逃がしたんじゃないかと思っている。ここはタークスに任せて、お前は戻った方がいい」
「……奴らを探すなと、命じられた覚えはない」
「セフィロス!?」
ツォンの申し出に耳を貸さず、セフィロスは背を向ける。噴水広場の先にはLOVELESS通りが続いている。そこは、かの戯曲の公演を見るために、よく連れられた場所だった。
「心配するな。うまくやるさ」
声を荒げる男がそれ以上追うのを拒むように、軽く腕を挙げる。ひらりと手を振って去っていくセフィロスの背を目で追うツォンの傍らに、複数の足音が近づいてきた。
「あれが英雄? 随分な問題児ね。ラザード統括が手を焼くのが判るわ」
「俺たちの仕事は、脱走したソルジャークラス1stを見つけて始末することだぞ、と」
「………どうする」
タークスにとって、任務は絶対だ。それが例えどのような任務であっても。
眉間に皺を刻むまま、ツォンはたった一つため息を溢した。
女性でありながら、難易度の高い任務をものともしないシスネ。煙草を燻らせるレノは、ふざけたようなみてくれに反して、シビアに任務を遂行する。レノの性格を十分理解しつつ、寡黙に、けれど着実にそれをサポートするルード。
傍らに佇む彼らに、ツォンは命じた。
「レノとルードは五番魔晄炉へ。シスネはセフィロスを追え」
「……それで、どうするの?」
「決まってんだろ、俺たちは…」
「…タークスだ」
シスネの問いを、既に駅のホームへと歩き出すレノとルードが追い越し様に答えた。咥えていた煙草をピンと弾き、噴水に投げ捨てるレノにシスネが、怒られるわよ、と苦言を呈す。任地へ向かう二人を見送って、ツォンは踵を返した。
「二人を見つけ次第、抹殺だ」
すれ違いざまにそう告げると、本社ビルへと足を向ける。
既にタークスとしての任務は始まっている。ふ、と小さなため息をつくと、シスネはセフィロスの消えたLOVELESS通りへと走り出した。
ザックスはどうしているだろう。不意に、そんな考えがシスネの脳裏をちらついた。そしてすぐに、彼女は任務に不要なその雑念を打ち払う。
循環する噴水の煌きだけが、依然変わらず流れ溢れていた。
■ ■ ■
普段は盛況なLOVELESS通りも、流石の今日は人通りも少ない。セフィロスの硬質な足音が、静寂のミッドガルに響く。
相も変わらず同じ戯曲を上演するこの劇場も、今日という日は休演しているようだった。ふと、セフィロスは足を止めた。
不意に視線を流した、裏へと続く路地には、誰の人影もない。セフィロスの背後、離れた場所に、自分と同じように立ち止まる気配を感じる。用意周到なことだと、セフィロスは口隅を歪めた。
「…タークス、か」
その呟きは、相手には聞こえてはいないだろう。裏路地へと続く角を曲がる英雄を追って、足音を立てぬように配慮しながら彼女は劇場を横切った。
唐突に立ち止まると、ウェーブがかったオレンジ色の髪が耳元で跳ねた。ガラクタの無造作に置かれた路地に、先刻まで追っていた人影はない。慌てて辺りを見回すシスネは小さく舌打ち、レノの癖が伝染してしまったと、ため息を漏らす。
「撒かれた…みたいね」
スーツのポケットから黒い携帯を取り出すと、慣れた手つきでツォンの連絡先を叩き出す。事態を報告する女を見下ろしながら、劇場の屋上に膝をつくセフィロスへと、空から白い羽根がひらひらと舞い散った。
「……久しぶりだな」
タークスがその場を去ったのを確認して、セフィロスはゆっくりと立ち上がる。傍らに舞い降りた男の手には、相も変わらずその剣が握られている。
「セフィロス…」
その眉間に深いしわを刻んで、搾り出すように呟く彼は、苦しんでいるようだと感じた。
アンジールは、その手に握るバスターソードを構えようとはしない。くい、と顎先で聳え立つ神羅ビルを促して、セフィロスは言う。
「奴らは、お前たちを血眼になって探しているぞ」
「…お前も、そうじゃないのか」
「隠れる気など無い癖に」
正に今、自ら自分の目の前に現れた親友を笑うと、佇むアンジールも、思わず表情を和らげた。
翼の生えた背へと、大刃の剣を収める。お互いに、ここで戦うつもりはどうやらないらしい。久々の再会を喜び合うこともなく、アンジールはセフィロスへとゆっくりと近づいていった。
「…随分大層なものを手にいれたようだが。それは、ホランダーの仕業か? 」
「ザックスには、天使と呼ばれたがな」
「安直なことだ」
揺れ動く翼は白く、ひらりと羽根が空を舞う。変わってしまったその姿は、彼と自分との遠のいた距離を痛感させる。
隣に佇むアンジールが神羅ビルを見上げる瞳は、愁いを含んでいた。人でなくなってしまったことを、誰よりも恨めしく、苦しんでいるのはアンジールの方だった。
「ジェネシスを救う道があるかと、色々試してはみたが…このザマだ」
「ジェネシスはどうしている」
「あまり、良いとは言えない」
「劣化…か。……酷いのか?」
「このままであれば、な」
晩夏の日、人目を盗んで忍び込んだトレーニングルームで、彼を傷つけたのは誰でもないセフィロス自身だ。握り締めた拳に、人知れず力が入った。
「…お前は、どうするんだ」
問うセフィロスの言葉に、アンジールは言葉を詰まらせた。
人間になりたいなどと、叶わぬ、稚拙な夢を語ることはもはやできなかった。悲痛そうに眉を寄せて、どうにもできない憤りを抑えながら、彼は答える。
「なにかが、俺の中で目覚めようとしている。恐ろしく禍々しい何かだ。もう時間がない。俺たちが生きる道は…ひとつしかないんだ」
彼自身を守るように広がる翼は、その神々しさとは違い、誰も救ってはくれないのだと感じた。感情を押し殺すように紡ぎだされるその言葉は、セフィロスの知るどの彼よりも軟弱で、痛切で、セフィロスは強く拳を握り締めたまま、視線を背けた。
「……それで奴の言いなり、か。落ちぶれたものだな」
「く…ッ」
押し殺す憤りを抑えきれずに、アンジールはセフィロスを睨みあげた。
ビル風に吹かれてたなびく銀髪の男の横顔が、軽蔑を匂わせている。背負っていたバスターソードを繰りだし、その切っ先が、不動のまま佇む英雄の喉元を捕らえた。
「お前に、なにがわかる……!!」
ゆるりと視線を流すと、セフィロスの魔晄の瞳が、ただただ冷涼に、語気を荒げる親友を見つめていた。
人情深く、誠実で、少々度が過ぎるほどのお節介。貧乏性で禁欲主義で、三人のまとめ役はいつもアンジールだった。
真面目な彼の性格をよく知って、上に立つ者も、下から見上げる者も、隣に立つ自分も信頼していた。彼らを翻弄する科学者への憎しみが、それに従う彼をも憎ませた。
「…アンジール。この剣は、飾りか?」
「なに?」
刃こぼれひとつしていないその剣を、使ったのをセフィロスは見たことがなかった。今自分に向けられている刃の煌きに臆することなく、彼は続ける。
「『どんなときでも、ソルジャーたる者、誇りを持たなくてはならない』」
「……」
アンジールは言葉を失って、ただその場に立ち尽くす。それは、かつて自分が言った言葉だった。
セフィロスとジェネシスは、飽き飽きだというように、いつもその説教を聞き流していた。それを指摘して、更にまくし立てるアンジール。彼らはいつも、そうして一緒にいた。
「俺に、そう言ったのは、お前だったはずだが」
英雄の急所を捕らえた刃の切っ先が震えている。苦しそうに、辛そうに、奥歯を噛み締める親友に、セフィロスは悲しさよりも悔しさよりも、苛立ちを感じていた。
突き出された刃を軽く手で払い捨てる。力無いその剣は容易に振り払われ、アンジールははっと顔をあげた。
「…セフィロス。俺は…」
アンジールの言葉を待たず、会話を裂いたのは、大きな爆発音だった。咄嗟に反応し、振り返ると、神羅ビルのエントランスが、赤く光っているのがわかった。そして、町中に鳴り響く警報音。
見下ろすLOVELESS通りは逃げ惑う市民の悲鳴で溢れ、その先に、神羅ビルへと駆けていくジェネシスコピーの姿が映る。それは、敵の再襲を意味していた。
「じゃあな。もう会うこともあるまい」
短く告げて、セフィロスは得物を握り締めた。劇場の屋根から踏み出し、高く跳んだかと思うと、元のLOVELESS通りに優雅に着地する。
セフィロスは、アンジールを斬ろうとはしなかった。それは、かつての親友に対する、彼の精一杯の労いだったのかもしれない。
そのまま駆け出そうとするソルジャーを、アンジールが大声で呼び止めた。
「セフィロス!」
立ちはだかろうと言うのかと、セフィロスは握り締めた正宗を閃かせた。片翼で宙を翔ぶアンジールへと、今宵初めて刃を向ける。
睨みあげた先の、かつての親友は、背負っていた誇りの象徴を再びしっかと握り締めていた。
こちらを見下ろす彼は、いつもそうしていたように、バスターソードを額に掲げて眼を閉じる。深く、その胸に染み込ませるように呼吸すると、瞳を開いたアンジールはゆっくりと、微笑んだ。
「……コピーどもは進化している。手こずるなよ」
その笑みは、かつて自分と肩を並べた、ソルジャークラス1stのそれだった。威嚇するセフィロスの切っ先が、ゆっくりと下がっていく。かつて共闘していた時と同じに腕をあげると、アンジールはセフィロスに軽く手を振って見せた。
「後で会おう」
そう言って、アンジールは翼をはためかせ、暗いミッドガルの空へと舞い上がる。誇りを取り戻したかに見える彼の背を、見送るセフィロスの口許に、自然に、笑みが浮かび上がった。
「面倒な奴だ」
アンジールの翼が自在に宙を舞い、ひらひらと舞う白い羽根が残される。それらが全て舞い落ちるよりも先に、セフィロスは地を蹴って神羅ビルへと走り出した。
人波に逆流して駆ける彼は携帯を取り出し、その履歴からザックスへと発信する。
「ザックス、今すぐ神羅ビルに戻れ。ジェネシスが攻撃をしかけてきた」
短い通話はすぐに切れる。セフィロスは、共に戦う正宗のつばを鳴らし、銃声の響く神羅ビルへと急いだ。