軌跡<12>
瞳を開いたクラウドは、自分がまったく別の世界に立っているのだと知った。そこは先刻までいた神羅ビルではなく、そもそも屋内ですらない。神羅最大の軍事基地、ジュノンの海が、眼前に雄大に広がっていた。
「じきに慣れる」
傍らに佇むセフィロスが、動揺を覚える少年へと声をかける。初めての仮想空間体験に緊張を隠せずにいるクラウドは、自らの両手を見下ろして、ごくりと息を呑んだ。
ソルジャーの訓練用に使われているトレーニングルームは、その使用中は外部からの接触は厳禁であり、完全な密室となる。
電話が切れたあと、セフィロスは迅速に待機するクラウドの前に姿を現した。 彼を連れていったのは、ソルジャーフロアの一角にあるこの部屋だ。躊躇するクラウドを、セフィロスは夕陽の落ちるジュノン港に導いた。
茜さす海は、魔晄キャノンの足元に打ち寄せる波を運ぶ。ようやく慣れてきた少年は、碧に煌く瞳に地平線を映し出す。彼の歩みは、魔晄キャノンの先端をいくセフィロスを追いかけていった。
「――…あいつは、この景色が好きだった」
鼻先を擽る潮風は、その景色が紛い物なのだということを忘れさせる。銀色の髪が夕陽に反射して、薄紅色に風に揺れる。
「…誰のことですか?」
「ジェネシスだ」
漏らす吐息に乗せて、セフィロスは微笑む。何度か彼に会ううちに、それが彼の癖なのだとクラウドは知った。
「しかし、査定対象任務にしては、少々内容が重いな。ラザードも酷いことをする」
「俺が…頼んだんです」
肩越しに、魔晄の輝きがクラウドを捕らえる。無言の問いかけに答えようと、クラウドは胸に息を吸い込んだ。
「本当なら、あなたと一緒にコレルに行くところでした。俺が統括に頼んで、外してもらいました。……今の俺ではまだ…あなたと共に戦うことなど、できませんから…」
後半に向かうにつれて、クラウドの語調が弱くなっていく。逃げる少年の視線はセフィロスの靴先に留まる。夕陽を受けて、白皙の肌に紅を差す少年を見つめたまま、セフィロスはくつりと喉を鳴らした。
「…強情だな。だが、悪いことじゃない」
一先ずの安堵に胸を撫で下ろし、少年はようやく顔を上げた。
風を受けて髪を靡かせるセフィロスの横顔は、英雄のそれとは思えぬほど穏やかだ。最強の戦士の在り方を勝手に想像していた少年は、当初それと本人とのギャップに動揺すら覚えたものだった。
偶然なのか、必然なのか、彼と何度かまみえるうちに、クラウドはセフィロスという人間の片鱗をようやく捉えつつあった。その素顔は、思っていたどの彼とも違っている。
強くて、ただ強くて――。その笑みは、優しくて、柔らかくて、意地悪で、そしてどこか、寂しそうだった。
「…セフィロス、あの……」
モデオヘイムへと発つ前に、確かめたいことがあった。勇気を振り絞る少年へと、再び魔晄の輝きが注がれる。躊躇う少年の口唇は、けれど確かな覚悟と共に、その言葉を紡いだ。
「…俺、二人を…連れ戻してきます」
セフィロスは片眉を上げた。
少年が渾身の力で振り絞った言葉は、その意味を十分伝え切れていない。彼は沈黙に続きを促す。固く拳を握り締めた少年は、厳かに口を開いた。
「ホランダー博士は、サー・ジェネシスと一緒に行動しているとお伺いしました。あの人がなにをしようとしてるのか、なにを考えてるのか…、なんでソルジャーが神羅を抜けて、神羅を襲うのか、俺にはわかりません。でも……」
少年の必死の独白を聞いていたセフィロスは、胸が熱くなるのを感じていた。
自分は、彼を引き止めることも、手を下すこともできなかった。目の前の少年は、たかが一般兵の分際で、自分と同等に肩を並べていた彼を連れ戻すなどと、血迷ったことを口走る。
セフィロスが、抱くことさえできない想いを、溢れさせている。
「……ジェネシスとアンジールには、抹殺命令が出ていたはずだが」
「あなただって、命令を無視している」
瞳を細めたセフィロスとクラウドの間に、一陣の風が吹きぬけた。
英雄の発言に口を挟む者などいなかった。今、彼は、その不敬を承知で、けれど必死に、不慣れな言葉を紡ごうとしていた。
「あの夜、あなたは二人を追いかけていった。なのに、二人とも生きている。あなたともあろう人が、戦って、負けるはずがない」
一度言葉を切って、クラウドは深く息を吸い込む。肺にとめた空気をゆっくりと吐き出しながら、クラウドは尋ねた。
「……戦わなかった。わざと、逃がしたんじゃないんですか」
何度も考えた。いろんな可能性を取捨選択したクラウドの、結論はそれだった。
神羅の英雄、最強の戦士。圧倒的な強さを誇るセフィロスが、いくら同じくソルジャークラス1stだったとしても、敗北するはずがない。
素顔を垣間見せる彼からは、二人の思い出がちらついている。クラウドは二人を知らなかったが、セフィロスと居るときはいつも、その存在感を感じていた。かつては仲間だった、いや、仲間以上の関係だったのかもしれない。
「あなたの代わりに行って、二人を連れ戻してきます。俺にできることは、それくらいしかありませんから…」
セフィロスは、ただ黙って彼の叙情を聞いていた。これだけ確かに、これだけ深い、彼の想いを目の当たりにしたのは初めてだった。
たかが一兵卒の分際で、少年はセフィロスの、内に仕舞いこんだ深淵をえぐり、掠め取っていく。彼の双眸は、紅をさして尚、淡い碧の輝きを保って、誰でもないセフィロス自身を見つめていた。その輝きには覚えがある。見ているだけで心が安らぎ、触れれば全てが癒されるような、優しい、けれど逞しい、輝きだ。
「…命令違反が表に出れば、大幅減点だな。ソルジャーなど夢のまた夢だ」
「それは…――ッ」
しっかとセフィロスを捕らえていた少年の視線が揺らぐ。
彼は、ソルジャーになりたいという野望ばかりか、彼らまで取り戻そうなどと、無鉄砲なことを口にする。それがいかに無謀であるかを、セフィロスは十分すぎるほど理解していた。
彼らの劣化をとめる手段はない。一度踏み外れた道が交差することは二度とない。しかし――。
セフィロスは口隅を緩めた。その口唇から零れた吐息に気づいて、クラウドは顔を上げた。
風に髪をはためかせていたセフィロスが、その歩みをクラウドへと踏み出す。思わず後退しかけるのを必死で耐えて、動揺を滲ませるクラウドは居たたまれずに俯いてしまう。
眼前に立つセフィロスの長い影が、クラウドを包みこむ。微動を殺せずにいる少年を見下ろしたまま、セフィロスは静かに尋ねた。
「同行するのは、ザックス、か?」
「ぇ……? あ、はい…」
クラウドは顔を上げることができなかった。セフィロスがどんな表情で自分を見下ろしているのか、それを窺う勇気がなかった。
「……お前たちなら、できるかもしれんな」
夕焼けの染みるジュノンの空気は清々しく、セフィロスの低い声はよく響く。見上げた視線の先で、セフィロスは表情を穏やかに綻ばせていた。
「助けになるとは思えんが」
差し出すセフィロスの手には、クラウドの瞳と同色の球体が握られている。
「お前が持っていろ」
恐る恐る伸ばしたクラウドの手にそれは渡された。マテリアをこのように間近に見ることなど、研修以外では初めてのことだった。
「フルケアだ」
「……!? そんな貴重なものを、戴けません」
「預けるだけだ。なにかの役には立つだろう」
返そうとするクラウドの手を包み、強引にそれを掴ませる。
フルケアは、クラウドも知る治癒系の最上級魔法だ。当然、クラウドにそれを使いこなせるほどの力はない。
古代種の純粋な力に一番近い、その古の力を封じたマテリアは稀少で、神羅の最先端技術をもってしても、その生成は困難を極める。マテリアを握る手を押し、セフィロスはそれを彼に託した。
「あいつらに会ったら、宜しく伝えてくれ」
セフィロスの指先がそっと離れていく。グローブ越しに伝わる体温はあたたかかった。
その発言の真意を問おうとするクラウドの口唇が、言葉を失う。彼はその面差しも穏やかに、クラウドの覚悟を黙認している。あの日、あの朝日のさす洞窟で感じた、喜びと、誇らしい想い。再びそれが心を満たすのを感じながら、掌に余るマテリアを握りしめ、クラウドは深く、頷いた。
「――必ず」
夕陽はいつしか海に溶けゆこうとしている。眩い光を背負うセフィロス影の中で、クラウドの口唇が緩いカーブを刻んだ。
やがて世界は激しく輝いて、パラパラと崩れていく。咄嗟に目を閉じ視界を守るクラウドの手には、幻でない碧玉が確かに握られていた。
■ ■ ■
深く頭を垂れて、走り去っていく少年兵を見送るセフィロスは、嘆息を漏らした。思い通りにならないばかりか、彼はセフィロスの予想の届かない言動を見せる。
我ながら、それを興味深くも思う。いつの間に、彼は自分にこれだけの影響を及ぼす存在に変化したのだろうか。最初に彼を認識したときは、彼を儚いとすら感じたのに。
同時に、セフィロスの胸に小さな不安が宿った。彼の齎す自分への変化が瑣末でないことに気づいたからだ。
一般兵の少年のことなど、無敵の飾り名を持つセフィロスにとっては取るに足らない相手だと認識していたが、彼は日の経つにつれて、セフィロスにとって特殊な意味を孕むようになっている。それがよからぬことなのか、セフィロス自身にも判断はつかなかった。
と、カツリと足音を鳴らして、死角に佇んでいた男の影が、セフィロスへと近づいてくる。
「用件終了。待ちくたびれたぞ、と」
口癖に特徴のある男の正体は、見ずともわかる。軽く首を傾げて確認すると、やはりそこには、制服のスーツを着崩す姿勢の悪い男が佇んでいた。
「出立時刻はとっくに過ぎてる。遅刻は勘弁してほしいぞ、と」
「……たかがウータイ兵殲滅作戦に、タークスが何の用だ」
「アバランチの連中がコレルに集結してる。あいつらに組まれでもしたら、ちょっと厄介だぞ、と」
軽薄な口調で答える赤髪の男とは、何度か任務で同行したことがある。ふん、と息を鳴らすと、セフィロスは踵を返し、彼の横をすり抜けて歩き始める。その目で、廊下の反対側へと消えていった少年兵の姿を追いかけていたが、タークスは彼へと足早に駆け、それに続いた。
「英雄サマが、任務を差し置いてデートとはね。明日は雨が降るぞ、と」
揶揄する言葉には反応せず、セフィロスはただ黙々と闊歩する。その背後で、つくづく面白味のない男だと、レノは控え目に舌打った。
任務の遂行にひたすら忠実な男の稀有な行動、そして彼に特別な影響を与えただろう少年兵のことを、レノは密かに記憶に刻む。しかし、それもこれから臨む任務には関係のないことだ。細いため息を漏らすレノも、やがてセフィロスと共にソルジャーフロアを後にする。
時刻は、正午を回ろうとしていた。