It's a wonderful life.<03>

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 足を伸ばすと、空き缶が軽い音を立てて転がった。ソファの上には乱雑に脱ぎ捨てた服が積み重ねられていて、腰を落ち着ける場所もない。
 普段であれば、この乱雑さもさほど気にはならないのだけれど、今日という日は、それすらザックスの心をざわつかせる要因になっている。苛立ちの積もり積もった心を落ち着かせようと、フローリングに座り込んだまま、ザックスは仕方なく、三本目のビール缶の封を切った。
 ソファに叩き付けた携帯は、やはり鳴り出す気配はない。時計のない部屋では、今が何時なのかもわからない。
 それでも、カーテンの隙間から見える景色がたっぷりと夜を纏っていることから、もうすぐ日付が変わろうとしているのだと予想できる。大口に酒を注ぎ込むと、ザックスは香ばしい呼気を惜しげもなく天井へと吐き出した。
 染みひとつない天井を見上げながら、彼は態と、ため息を漏らした。そうすることで、少しでも気が紛れるのではないかと期待した。
 いつもであれば彼を陽気にしてくれるアルコールが、今夜は一向にその力を発揮してくれない。彼の胸中はどんよりと重く曇ったままで、ザックスは試みが徒労に終わったことを知り、自嘲に口隅を歪め、酒を煽った。
 無性に、部屋を掃除したい衝動に駆られた。けれど、一日の業務を終えて、またその後、友人との約束を果すために八番街を奔走したザックスには、新たな行動に出るだけの気力が無かった。
 剣を振り回していたこれまでとは違い、最近は安穏とした日々に力を持て余し、戦士の心身は平穏に蝕まれてしまっている。自身の怠慢の責任をこの状況のせいにして、ザックスは今宵、その腰を上げるつもりはなかった。
 ドアベルが、鳴った気がした。飲み口についていた泡を啜ったザックスは、確かに響いた音を、気のせいだと片付けようとしていた。
 携帯に届く新たなミッション通知ならまだしも、常識を考えない来客を相手にするなど、煩わしいだけだ。ビール缶に口をつけようとしたザックスは、ふと、手を止めて顔を上げた。
 クラウドは、どうしているのだろう。先程からザックスの脳裏を巡ってやまない思考が、再び彼を支配した。
 待っていろと命じた、それに彼は、頷きを返した。
 戦場から逃げ出すなど、ソルジャーにあるまじき失態だ。候補生として演習を受ける身でありながら、醜態を見せた少年を、あのまま放ってなどおけなかった。
 そもそも、彼がそんな行動に出たのは、セフィロスの考えなしな言動のせいだ。
 訓練場を本物の戦場に変えた彼の姿は、周りの目にはあれぞ英雄だと、悠然と映ったことだろう。しかし、いきなり舞台に引き上げられた、戦士として未発達な少年にとってはどうだったろう。どんな感情を理由にしても、彼を傷つけて良い道理にはならない。
 再び、セフィロスへの苛立ちが内臓の底からこみあがってきて、ザックスは感情を押し流そうと、酒を煽ろうとした。
 ドアベルが、確かな音を響かせた。はっと気づいて顔を上げると、傾けた缶口から、安酒がだらだらと零れ落ちた。
「うぉっ」
 思わず、驚きの声があがる。麦色の酒が服と床とを汚してしまい、ザックスは慌てて缶を床に置いた。
 投げ出す肢の間に酒溜まりが出来て、手近に放り出してあったタオルで彼はそれを拭きとろうとした。そうする間に、彼の円らに開いた眼は遠いドアを探し当てて、その向こうでベルを鳴らした相手を思った。
 八番街の神羅軍兵舎、それに隣接するソルジャー居住区に、出入りできる人物は限られている。相手が、神羅関係者であることに間違いは無い。
 ザックスと懇意にしている同期のソルジャーは、今はミッションに出かけているはずだ。だとすれば、誰が尋ねてきたというのだろう。
 ザックスの脳裏を、複数の人物が過ぎった。クラウド、だろうか。もしくは、セフィロスが謝罪にでも訪れたとでもいうのか。
 濡れた服を拭き取ることも忘れて、床を擦ったタオルをそのままに、ザックスは立ち上がった。
 散乱する荷物を飛び越え、玄関口へ飛び出していくザックスは、壁付けされた電子ロックキーを掌で押し、解除する。自動扉の開く先を見据えるザックスの瞳が、驚きに瞠かれていった。
「よう」
 深夜の来訪者は、ザックスの予想を裏切った。草臥れた黒スーツに、目も覚めるような深紅の髪を散らして、タークスは立っていた。
 その背中には、悄然とした神羅軍の軍服が背負われている。ずるりと担ぎなおした拍子に、ザックスはそれが、彼の探し人であることに気づき、更なる驚きに声を失った。
 驚愕するザックスに臆す様子も無く、レノは部屋の中へと足を踏み入れた。
「邪魔するぞ、と」
 言うが早いか、彼は土足のまま、部屋の奥へと踏み進んでいく。ザックスは慌てて、彼のために道を開いた。
 目を瞬かせるザックスの後ろで、扉が音も無く閉じていき、彼はようやく我に返った様子で、当たりを物色するレノを追いかけた。
「おい、なんなんだよ」
「きったねぇ部屋だな」
「ああ、悪い…っ、じゃなくて!!」
 レノの背中に背負われた少年は、身動きする様子も無く、すっかり消耗してしまっているようだ。けぶるようだった金髪はすっかり乱されてしまっていて、肩に乗せる顔は衰弱しきってしまっている。
 ザックスは、突然の来訪に動揺を隠し切れないでいた。彼の理解を置き去りにしてレノは寝室を探し当て、背中に抱えていた荷物をベッドメークの乱れた寝台にゆっくりと担ぎ下ろすと、ようやく、ふ、と息を抜いた。
「おい、レノ」
 広いベッドの中心に少年を横たえて、レノはその傍らに腰を下ろしていた。あんな場所ではろくな手当てもしてやれず、汚れを無造作に拭って、被せた軍服を留めただけだった。騒々しい家主に説明するのも煩わしく、レノは無言で、彼の軍服のボタンを弾いていった。
「……レノ…」
 襟の合わせを解くと、薄い服に覆われた細身の肢体が露になった。肌には青い痣が浮き出てしまっていて、首筋に残る鬱血点が白皙に滲んでいる。
 土埃に汚れた顔に残る筋が、一体何の痕跡なのか、ザックスはようやく理解した。口唇が怒りに震えて、漏れる息は容易には声にならない。
 シンとした無言の広がる室内に、スーツの肩に強く掴みかかる男の怒声が響き渡った。
「誰がやった!? まさかお前――ッ」
「落ち着け。大声だすなよ、と」
 襟首を押さえつけ、引き起こそうとする腕に、タークスの冷静な指が食い込んだ。声音を抑えてはいても、彼の淡々とした怒りの感情が拉ぐほどに痛む腕から伝わってきて、ザックスは息を呑んだ。
 怒鳴り散らしたいのを押さえ、ザックスはゆっくりと、彼の襟元を掴む指先を解いた。
 なんとか嚥下した怒りが内臓から血流を伝って全身に広がっていくようで、彼は煮え切らない憤懣を、握り締める拳に集約しようと試みた。ぎりりと奥歯を噛み締めるザックスを見上げて嘆息すると、レノは横たわったままでいる少年へと視線を戻し、静かに語り出した。
「興奮剤の空き瓶が転がってた。誰がやったか知らねぇが、神羅にも、クズはいるってこった」
 ここ暫く、タークスの精鋭であるレノは、勅令により、神羅関係者監視任務に任じられていた。ターゲットは三人、セフィロス、ザックス、そしてこの少年だ。
 反神羅の動きを見せるはずもない対象を、ただただ見守り続けなければならないというのは、ひたすらに億劫だ。普段なら鋭敏に反応できたにも関わらず、ターゲットを見失うなど、タークスとしては完全な失態だ。八番街の町外れで、転がる少年は無惨な姿に変わっていた。
 単調に語るレノが歯噛みするのを感じ、ザックスは沈黙を守っていた。
「しかも、リミットブレイクしてやがった。…ま、鎮静剤は打ってやったから、そっちの方は心配ないぞ、と」
 後ろ髪を掻くと、レノは徐に、立ち上がった。無言を保ったまま傍らに立ち、感情を殺して状況の把握に集中していた青年のすぐ傍に立つと、アルコールの香りが届いて、渇望を煽るそれに、レノは気が抜けたように、笑みを漏らした。
「…それじゃ、後は頼んだぞ、と」
 踵を返し、彼は歩き出そうとしていた。赤色の尾が背中で揺れるのを追いかけて、ザックスは数歩、フローリングを踏んだ。
「っ待てよ、レノ。…どうして、お前が……」
 彼でよかったと、思う気持ちがあった。見ず知らずの誰かに、友人である少年の惨憺な姿を見せてしまうくらいなら、気の知れた相手であったほうがいっそのこと気が楽だ。
 レノは足を止め、振り返る。眇めた視線の先に、常日頃明朗快活な表情を振り撒く青年が、似合わぬ眉間の皺を刻んでいるのを見つけた。
 冷静に考えれば、ソルジャー候補生の少年を監督するのは、上席であるザックスの責任だろう。彼を取り巻く不穏な噂を知っていながら、ザックスはそれに一笑して軽んじるばかりで、なんの対策も打たなかった。
 自分の怠慢を棚に上げた物思いに、ザックスは後ろめたい気持ちになって、表情を重くする。それを見詰めていたレノは、まったくもって不似合いだと、乾いた口唇に歪んだ笑みを刻んだ。
「八番街は、タークスの担当だぞ、と」
 監視、すなわち、神羅にとって不都合のないよう、見張ること。ターゲットを外敵から守ることまでは、任務から逸脱しているような気はするものの、レノの胸中には、横槍を出されたことに憤慨する気持ちがあった。
 この必然を、偶然に摩り替える言葉を吐くと、レノは様子を伺うように、相手の表情を探る視線を向ける。ザックスがぎこちない笑みを浮かべたことに、自分の偽装が効果をなしたことを知り、レノは安堵に胸を撫で下ろした。
「こっちはこっちで、なんとかする。そっちはお前に、任せたぞ、と」
 持ち上げた指で寝室を指すと、ザックスは得心して、頷きを返した。
 少年を傷つけた張本人を探しあて、悔いることも出来ないほどの責苦を味あわせてやりたいとも思ったけれど、疲弊している彼を放っておくわけにもいかない。付き合いの浅い相手ではあったけれど、ザックスは既に、相手にその役を任せるだけの信頼を抱いていた。
「ああ、それから…」
 思い出したように声をあげて、レノは言葉を詰まらせた。ポリポリと頬を掻く相手を見守りながら、ザックスは訝しみ、続きを促す。
「俺がここまで運んだこと、内緒にしといてもらいたいぞ、と」
「え? なんで?」
 予想外の申し出に瞠目するザックスに、レノはどう返したものかと、眉を寄せた。
 接点を残すことは、スマートに徹する彼の美学に反している。スーツのポケットに両手を突っ込むんで、いつもの軽妙さを手に入れたレノは、はにかんだように言った。
「ガキんちょ相手に、貸しを作るのは御免だぞ、と」
 意地悪く頬を吊り上げた笑みだったけれど、悪意は感じ取れなかった。ザックスは、それが彼なりの恥じらいなのだろうと察して、強張る頬を緩ませた。
 心の奥から沸き起こった暗澹とした感情に埋め尽くされた胸中が、友人の笑みによって絆されていく。苛立ちの刺が和らいでいくのを感じて、ザックスはきつく握り締めていた拳を、緩めようと力を抜いた。
「それに、こういう役は、お前の方が似合ってる」
 相棒との戯れで、レノはある賭けに興じていた。この気まぐれは、勝ちを呼び込むための小細工ではあったけれど、続く言葉も、紛れもなく、珍しい彼の本心だった。
「ヒーローなんてのは、柄じゃないぞ、と」
 独りでいて、ギラつく刃を振り上げる方向を見失っていたザックスは、それの使い道を示されて、ようやく鞘に収めることができた。新たに握り締めた拳にこもるそれは、誰かを傷つけるためでなく、守るために与えられた力だ。
 立ち去っていくレノを送り出して、残されたザックスは、両の掌を見下ろして、ゆっくりと目を閉じた。
 今、自分のしなければならないことはなんだ。自問する彼は、巡る思考を集約させると、刮目した自身に渇を入れようと、酔いを残した頬を叩き、張りの良い音を響かせた。
 居住区を後にして、八番街へと歩き出したレノは、スーツに閉じ込めた指先に触れる煙草を取り出して、慣れた動作で一本を取り出した。それを咥えようとして口唇を開くと、鎮静剤の残味の残る喉に空気が触れて、ふと彼は足を止める。
 掌に包み込むライターを擦ろうとした指先は、思い出すことのできるつい先刻の接吻けの余韻が、消えてしまうことを躊躇った。自嘲に口唇を歪めた男の掌の中で小さな炎が燃えて、それは空気に溶ける煙となって、すぐに消えた。
 静寂に煩雑な想いを溶かし、猛る力は矛先を捕らえてこそ、磨かれた才を発揮する。
 緻密に絡まる徒な絆は、拉ぎ痛む心を、したたかに縫いとめてくれる。
 ああ、なんて素晴らしい一日。
 ああ、なんて、素晴らしい人生。