It's a wonderful life.<10>
ツォンは、ため息を漏らした。
握りしめた指先には、絵の具の粘つきが残っている。刺激的な異臭が鼻孔を掠め、色が弾けた空気が、乾いた眼にツンと沁みる。
けれど、彼の眉をいつも以上に渋めていたのは、違和感でも不快感でもなかった。彼は、かっちりと襟を締めたシャツの内側に煩雑でシンプルな想いを閉じこめていて、それがチリリと燃える痛みに、表情を顰ませていた。
「どうしたの?」
通りかかったシスネが、彼に声をかけた。タークス本部の片隅で立ち尽くす男に歩み寄り、彼女はすぐに異変に気がついた。
「なによ、それ」
ツォンの頬には茶色いペーストが塗りつけられていた。指で拭ったからだろうか、かえって汚れが広がってしまっている。
指摘され、ツォンは改めて顔に手を添えた。ルーファウスに塗られた時についたものだろうか、抜けた筆の毛が肌にこびりついていた。ツォンは眉を顰めたまま、指先でカリカリと乾いた頬をひっかいた。
「絵の具だ」
「絵の具?」
シスネの問いかけにツォンは掠れた声で答え、思いもよらぬ返答に、シスネは目を丸くした。思いがけない事態だが、『彼』ならばやりかねない、と、シスネは扉の向こうにいる少年のことを思った。
「手酷くやられたわね」
くす、と微笑を漏らし、彼女はツォンを憐れむように瞳を細めた。
神羅カンパニーの君主、プレジデント神羅の一人息子は、過日の騒動の首謀者として、謹慎処分を受けている。絵の具を塗りつけてくるだなんて可愛くない悪戯だけれど、幽閉されて不満げでいる彼にかかって、その程度で済んだならばむしろ軽傷だったかもしれない。
「早く洗わないと、落ちなくなるわよ」
「ああ」
軽い音で応え、ツォンは頷いた。気がつけば、袖口や襟元にも、汚れがついてしまっている。小脇に抱えていたルーファウスの上着にも、青やら黄色やらのペンキの滴りが跳ねていた。
「ほら、貸して」
シスネは、ツォンの両手から荷物を奪った。ジャケットが皺にならないよう畳み直しながら、彼女は言った。
「ちょうどご挨拶にいくところだったの。早く行ったら? そんな面白い顔でいたら、笑われるわよ」
既に笑いを堪えられずにいる自分のことは棚に上げ、シスネは言った。荷物を奪われ、説得力のある彼女の調子に乗せられる。再び頷き、ツォンは言った。
「汚れてしまったから、ルーファウス様に着替えをお持ちしてくれ。中がペンキ臭いから、換気をした方がいい」
「ええ、わかったわ」
一体、中でなにがあったのだろうか。厳重にロックされた扉の向こう側も気になったが、珍しく圧され気味でいるツォンの様子も、シスネにとって刺激的だった。
後のことを仲間に託すと、ツォンは踵を返し、歩き始めた。数歩歩いたところで、彼は、はた、と思い当たり、足を止めた。
ジェネシスの足取りは掴めたものの、各地の魔晄炉からモンスターが大量発生し、事態は新たな展開を見せている。ソルジャーや軍が忙しくしている一方で、ジェネシスを追っていたタークスには、その功労に報いるように一週間のバカンスが与えられた。
「明日発つわ。コスタから、ウータイまで行ってみるつもり」
立ち止まり、振り返ったツォンに、シスネは言った。付き合いが長かったから、仲間の考えなどお見通しだったのだろう。
ジェネシスやレジスタンスなどの反神羅勢力への対応で、なかなかに多忙でいるタークスが、長期の休暇を取れる機会はそうそうない。先日の彼女のコスタでのバカンスは、知り合いのソルジャーの監視任務も兼ねていた。
仕事が邪魔をして、休日を思うさま過ごすことのできなかった彼女は、この一週間で浪費を取り戻すつもりなのだろう。戦争中、滅多に帰ることができなかった故郷にも立ち寄るのだ、と聞いて、ツォンはぴくりと片眉を上げた。
「たまには、ね。お土産は期待しないで」
シスネは苦笑して、首を傾げた。帰郷するのだ、と、改まって言うことをはにかんでいるようだった。
孤児院にいた彼女は、才能を見込まれて神羅に引き取られ、タークスのエリートとして育てられてきた。神羅にいた期間が長すぎるから、故郷を懐かしむ気持ちなど、人の真似ごとのようにも思える。
そんな彼女の気持ちを、ツォンはすぐに理解できた。神羅に尽くした時間の長さも、生まれおちた境遇も、シスネとツォンは似た人間であったから。
「良い休日を」
短い挨拶を交わし、ツォンは再び、歩き出した。ルーファウスの上着をしっかりと抱いたまま、シスネはツォンが角を曲がって見えなくなってしまうまで、その後ろ姿を見送っていた。
フロアに、他のタークスの姿は無かった。皆、星の端々でそれぞれ任務に就いている。ある者は潜伏し、ある者は前線を駆けずり回っている。
ツォンはといえば、タークスの主任だからといってあぐらをかいているわけにもいかず、『副社長の監視』という任務に一端の区切りがつき、また新たな任務に向かわなければならない。その前に、彼にはやらなければならないことがあった。
レストルームに立ち寄って、彼は上着を脱いだ。きっちりと留めたネクタイを緩め、襟もとの第一ボタンを外す。
次いで袖口のボタンも外してしまうと、手早く肘までまくりあげた。ようやく準備が整うと、ツォンは勢いよく水を流し始めた。
背を屈め、汗と絵の具で汚れた顔を洗う。ルーファウスに弄られた左頬を重点的に、何度も何度も、肌を擦った。
それは、ただ単に汚れを落とすためではなかった。ルーファウスに点された炎を冷やすためだ。シャツの内側、肌の一枚下にある肉の中に閉じ込めて、どこにあるのかすらあいまいな心の熱を冷やすためだ。
こんなものは、錯覚だ。なにかの間違いで、幻だ。そう思い込むために、彼は何度も顔を濯いだ。
強く擦ると水は跳ね、濡らした肌の上を伝った水滴が喉まで零れおちてくる。ツォンはスーツのポケットにしまっていたハンカチを取り出して、顎を拭い、そのまま顔面を拭き始めた。
鏡に映っていた自分の顔は、どことなく憔悴しているように見えた。束ねていた髪の淵が濡れて、少し乱れてしまっている。
普段の几帳面な姿とは違い、抜け目のある自分の姿を、無様であるとツォンは思った。彼は、ふ、と息を漏らすと、濡れた薄布と脱いだ上着を取り上げて、足早に歩き出した。
抱いてはいけない感情だと認識しているから、それが余計に魅力的に思えるだけだ。手の届かない相手だとわかっているから、憧れてしまうのだ、と、彼は無理やりに納得した。
つくづく、『自分』とは厄介だ、と、ツォンは思った。高嶺の花は、手折れないからこそ美しい。それを美しいと思う心が、『自分』が、任務の遂行の邪魔をする。
ロッカールームに辿りついて、ツォンは細く息を漏らした。人数分のロッカーには、それぞれの荷物が仕舞われている。部屋の中心にあるベンチに上着を放ると、ツォンは細い棚の扉を開いた。
緩めていたネクタイをほどき、扉の内側にかけると、シャツのボタンを外し始める。臭いのついた汚れたシャツを脱ぎ去ると、上の棚に並べていたスペアのシャツに袖を通す。
ツォンのすぐ左には、神羅を去った前任のタークス主任、ヴェルドのロッカーが、そっくりそのまま残されていた。シャツの糊をパリリと鳴らしながら、ツォンは彼の名札に目を留めていた。
タークスは、あらゆる手段を尽くして任務を成功させる。任務の遂行をなによりも優先し、任務の完遂を目指すのが、タークスだ。ツォンにそう教えたのは、ヴェルドだった。
任務の遂行のためなら、どんな犠牲も厭わない。それが大切な人であったとしても、それが、自分の心であったとしても。
ボタンを上まで留めきって、ネクタイを締め、髪を撫でつけ、タークスのツォンが出来上がった。扉の内側にはめられた小さな鏡を見つめ、ツォンは安堵し、嘆息した。
自分はまだ未熟で、拙い儀式を挟まなければ、『タークス』を取り繕うこともできない。こんな自分に、主任という大役が務まるだろうか。そんな弱気な考えすら浮かんでくる。
ちらり、と、ツォンはヴェルドの名を眇めた。誇りを取り戻せ、と恫喝する彼の声が、そう遠くない記憶から再生された。
苦笑を洩らし、ツォンは扉を閉めようとしたが、なにかがドアに引っかかった。見下ろすと、先ほどまで着ていたシャツがドアの隙間に挟まっていた。
ペンキの染みは、クリーニングでも落ちないかもしれない。このまま捨ててしまおうか。そんな考えが脳裏をよぎったが、ツォンは拾い上げたシャツを丁寧に畳んで、そのままロッカーの下の方へと置いた。
押さえつけることはできても、捨てきってしまうことなどできはしない。汚れを拭うことはできても、心に染みついた色までは落とせない。
鮮やかな想いの上に鋼鉄を纏って、武装を終えたタークスは無表情の仮面を被る。静かな音を立ててロッカーを閉じると、ツォンは歩き出した。
彼は、優秀なタークスだった。優秀なタークスであろうと、彼は努力を怠らなかった。
任務に出かけようとする彼の足は、ミッドガルの裏側、プレートの下にある伍番街スラムへと向かった。
そこへ行くのに、気を張る必要はなかった。仕事の内容は、古代種の生き残りを『監視』すること。悟られないよう、遠巻きに見つめているだけで、張り詰めた心は綻んだ。
彼女はただ、誰にも気づかれないよう、そっと、健やかにそこにいるだけだというのに、それを監視し報告するだなんて、悪趣味なことだとも思う。けれど、それはツォンの仕事であって、彼が選んだ生き様でもあった。
彼にその任務が与えられたのは、タークスになってすぐのことだった。当初は古代種の『捕獲』が任務だったが、それが『監視』に変わってからもう随分経つ。
その間ずっと、ツォンは命令通り、彼女を『監視』していた。いたいけな少女であった彼女が、のびやかに成長していくのを、ずっと見守っていた。
彼女は――エアリスは、最近出会ったソルジャーの青年と、順調に親交を深めつつある。古代種だとか、ソルジャーだとか、立場や境遇を抜きにして、共に過ごす時間を穏やかに朗らかに楽しんでいる。
ツォンは、それを羨ましいとは思わなかった。彼は、自分の本分と領分をしっかりとわきまえていた。
彼女の傍に立つのは、自分であってはならない。彼女の隣にいるのが、自分であってはならない。
そう納得していたはずなのに、スラムの片隅にある公園で、賑やかに花を売り歩く彼らを見ていて、ツォンは固めた心が焼ける痛みを感じた。
その公園は、伍番街スラムと六番街スラムの間にあった。瓦礫に囲まれたスラムの片隅に、一昔前の遊具が立ち並んでいる。その傍らに佇むタークスに、ソルジャーは敏感に気がついた。
ザックスは、接客に携わるエアリスを誤魔化して、ツォンに近づいてきた。彼はツォンの前に立つと息をついて、厳しい顔で腕を組んだ。
各地の魔晄炉にモンスターが発生し、ソルジャーたちは対応に追われている。ザックスも、渦中であるニブルヘイムへ向かう予定でいる。
その任務にどんな意味があるのか、ツォンはわかっていた。シスネが入手したジェネシスの情報を、セフィロスに与えたのはツォン当人であったからだ。
「彼女のことは心配するな」
難しい顔でいるザックスに、ツォンは言った。顎を引き、眉を結んでいたザックスがゆっくりと顔を上げる。
「監視任務には、危険要因からの保護も含まれている」
そう聞いて、ザックスは安堵したように息をついた。腕をほどき、殊勝な面持ちで彼は呟いた。
「あんたしか頼れるやつがいなくてさ」
ザックスの言葉に、ツォンは驚いた。目を瞬かせたツォンの目の前で、ザックスは遠目にいるエアリスを見つめていた。
ザックスがツォンに頼みごとをするのは、これが二度目だ。一度目は、不憫な事件に巻き込まれた少年を救うためだった。
あの夜、力を貸してくれ、と頼んできたのと同じ迫力で、ザックスはツォンに懇願した。ついこの間まで、ソルジャー候補の少年のために駆けずり回っていたというのに、今度はまた、スラムに密やかに咲く花のために奔走している。
ツォンは、彼のことを軽薄な男だとは思わなかった。彼があまりに澄んだ目で彼女を見つめていたから、十字の傷を刻んだ頬があまりに優しく綻んだから、彼を詰る気持ちなど芽生えなかった。
空色の瞳を細めて笑う男の横顔を見上げ、ツォンは思わず、音を零して笑みを漏らした。
「おい、なんで笑うんだよ!」
ザックスはいつだって正直で、いつだって純真だ。彼はきっと、彼が旅立った後にツォンがどう振舞うかなど、考えていないのだろう。
ザックスがもう少し尊大に振舞ってくれたら、ツォンは苦い感情を殺さずに済んだかもしれない。ミッションに旅立った男の留守をいいことに、彼女を慰める名目で卑怯な男に成り下がることもできただろう。
本当に、なんの疑いもなく、ツォンを信用して頼ってきているのだ。そんな彼を前にしては、偽善的な自分を演じることもできない。偽悪的に振舞うことも、出来そうになかった。
「頼んだからな!」
確かに言い置いて、ザックスは走り出した。その後ろ姿を見届けて、ツォンは自然に笑みを零す自分に気がつき、視線を落とした。
まったく、あのお人好しには呆れてしまう。人を簡単に信用して、大切なものを安易に任せようというのだから。
自分には、彼女の平和を見守る義務はあっても、彼女を幸福にする力も、資格も無いというのに。それが無いことに歯痒さを感じ、それをもつ男へ醜い感情すら抱いているのに、ザックスはその明朗な笑顔で、ツォンのわだかまりや憤りを消し去ってしまう。
「まったく……」
敵わない、とは、口には出さなかった。それを言葉にしてしまうことが、諦めのようにも思えたからだ。
遊具の傍らに佇んで、ツォンはそっと、二人の様子を窺った。摘んだ花をワゴンに敷き詰めて、子供らに囲まれて騒いでいる彼らの中で、エアリスは楽しげな笑みを浮かべていた。
芽生えた想いは掻き消せるものではなく、苦しみ、悩み、もがくことすら、許されないこともある。
投げ出してしまいたくなる想いでも、時折訪れる幸福に、思わず笑みすらこぼれるほど。
ああ、なんて素晴らしい一日。
ああ、なんて、素晴らしい人生。